遺書として

葉桜の美しき哉、逞しさ其れを知るのは死して散るとき

愛について

最後に愛というものについて書き残そうと思う。愛は一般的に家族や友達やペットなど、身近な存在の中でも特別なものに対する感情を指して使われることが多いように思うが、そもそも各宗教ごとに意味は異なるし、時代と共にその意味や使われ方も変わって来た。この過程について興味のある方々には各自調べて頂くとし割愛する。代表的な例として英語の「LOVE」と日本語の「愛」、そしてフランス語の「AMOUR」は現在、ほとんど同意とされているが本来、全く違う概念を表す言葉だった。

新渡戸稲造は海外に向けて英語で書いた「武士道」の中でこう書いている。

「私がおおざっぱにchivalry(騎士道)と訳した言葉は、原語の日本語では騎士道よりも、もっと多くの意味合いを含んでいる。(中略)このように文字上の意味を確認した上で、私はこれ以降、Bushido(武士道)なる日本語を使わせていただくことにする」

他の文化圏や言語にはそれ自体に独特な意味合いを持つため、彼は著作で異国の人々に対してこのように断りをいれてから書き始めた。

現代の日本人にとっての愛は先述したようだが、個人的には仏教のそれも釈迦の説いた原始仏教の其れに深い共感を抱く。仏教の開祖、釈迦は貴族の息子として生まれ何不自由なく成長し、結婚して子供も授かるが、そうした一般的に恵まれたとされる生活に無常感を抱き三十を前にして出家をした。その釈迦が説く愛はすなわち執着であるとされている。釈迦自身、自ら愛する妻や子供を捨てた苦悩もあり、それは「愛別離苦」という言葉で広く知られている。そしてその愛という執着心を捨てない限り、人生の真実を知ることは出来ないとした。

この文章を書く中で、十年以上前に読んだある小説の印象的な場面を思い出したので紹介したい。

それは三島由紀夫の代表作の一つである「潮騒」の中で、裸になった男女が焚き火を隔てて離れており「本当に愛しているのならその火を飛び越えてこい」と男女のどちらかが言い、片方がその火を飛び越え結ばれるという場面だ。

これは現代日本の愛にも通じる愛についての本質的な描写であると今になって感心する。愛を持って人に寄り添うなら、その人間の醜い部分や嫌悪したくなる側面も先述した小説の男女のように承知した上で行わなければ、その愛は憎しみや妬みといった人間的にとても醜いものになる。

これもある書籍で読んだものだが、80年代の時点でアメリカの離婚率は50%、つまり二組のうちどちらか一組は離婚するというもので、近年の日本も昔に比べたら随分と離婚率は上がったようにも感じ、愛というものに対しての個人的な不信感は益々募るばかりである。

しかし、現代に本当の愛があるならそれはとても尊いものだとも思う。

愛の正体を知らなければ人は傷つき、国は濫れていく一方だ。
誰かを愛すなら、自らを愛すように愛さねばきっとその国は滅びていくだろうと危惧しながら、ここに最期の言葉を遺す。