愛について
最後に愛というものについて書き残そうと思う。愛は一般的に家族や友達やペットなど、身近な存在の中でも特別なものに対する感情を指して使われることが多いように思うが、そもそも各宗教ごとに意味は異なるし、時代と共にその意味や使われ方も変わって来た。この過程について興味のある方々には各自調べて頂くとし割愛する。代表的な例として英語の「LOVE」と日本語の「愛」、そしてフランス語の「AMOUR」は現在、ほとんど同意とされているが本来、全く違う概念を表す言葉だった。
新渡戸稲造は海外に向けて英語で書いた「武士道」の中でこう書いている。
「私がおおざっぱにchivalry(騎士道)と訳した言葉は、原語の日本語では騎士道よりも、もっと多くの意味合いを含んでいる。(中略)このように文字上の意味を確認した上で、私はこれ以降、Bushido(武士道)なる日本語を使わせていただくことにする」
他の文化圏や言語にはそれ自体に独特な意味合いを持つため、彼は著作で異国の人々に対してこのように断りをいれてから書き始めた。
現代の日本人にとっての愛は先述したようだが、個人的には仏教のそれも釈迦の説いた原始仏教の其れに深い共感を抱く。仏教の開祖、釈迦は貴族の息子として生まれ何不自由なく成長し、結婚して子供も授かるが、そうした一般的に恵まれたとされる生活に無常感を抱き三十を前にして出家をした。その釈迦が説く愛はすなわち執着であるとされている。釈迦自身、自ら愛する妻や子供を捨てた苦悩もあり、それは「愛別離苦」という言葉で広く知られている。そしてその愛という執着心を捨てない限り、人生の真実を知ることは出来ないとした。
この文章を書く中で、十年以上前に読んだある小説の印象的な場面を思い出したので紹介したい。
それは三島由紀夫の代表作の一つである「潮騒」の中で、裸になった男女が焚き火を隔てて離れており「本当に愛しているのならその火を飛び越えてこい」と男女のどちらかが言い、片方がその火を飛び越え結ばれるという場面だ。
これは現代日本の愛にも通じる愛についての本質的な描写であると今になって感心する。愛を持って人に寄り添うなら、その人間の醜い部分や嫌悪したくなる側面も先述した小説の男女のように承知した上で行わなければ、その愛は憎しみや妬みといった人間的にとても醜いものになる。
これもある書籍で読んだものだが、80年代の時点でアメリカの離婚率は50%、つまり二組のうちどちらか一組は離婚するというもので、近年の日本も昔に比べたら随分と離婚率は上がったようにも感じ、愛というものに対しての個人的な不信感は益々募るばかりである。
しかし、現代に本当の愛があるならそれはとても尊いものだとも思う。
愛の正体を知らなければ人は傷つき、国は濫れていく一方だ。
誰かを愛すなら、自らを愛すように愛さねばきっとその国は滅びていくだろうと危惧しながら、ここに最期の言葉を遺す。
葉桜
現代の日本社会を視るとき、ただひたすらな淋しさを感じる。この日本に生まれ日常生活を営む日本人があまりに無知で不甲斐なく思うからだ。戦後、敗戦国である日本は歴史上類を見ないほどの速度で経済的発展を遂げ、瞬く間に先進国として世界にその存在を知らしめた。しかし、それはその背景にアメリカという歴史的には浅いが若く野心的で、暴力的なまでの軍事力と経済力を持った戦勝国が常に隣に居たからだ。アメリカによってもたらされた平和という幻想に日本人が魅せられたまま時代が進む中、日本人は考える事を次第に放棄し幼児化しながら欲望の赴くままに享楽的に生きてきた。アメリカにとって先の戦争での脅威であった日本とドイツは戦争終結後の扱いを非常に厳重に定めた。ドイツは最高責任者であるアドルフ・ヒトラーを「史上最悪の独裁者」と呼び、現在もドイツではヒトラーを賛美する事は法的に禁止され、アメリカ国内や日本におけるマンガやアニメなどのサブカルチャーを含むメディアでは悪の象徴として扱われることが常套化している。一方、日本はGHQがたった三日で作った憲法を一方的に押し付けられ、それを日本人は未だに平和憲法などと呼び、有り難がりながらアメリカの軍事力と経済力にその身を委ねている。自衛隊を違憲とした故・三島由紀夫は日本の伝統文化と美徳が喪われていく日本を憂いて民兵組織、楯の会を発足し自衛隊が立ち上がるのを待ったが、その日が来ても自衛隊は立ち上がらず、暴力的に自衛隊の市ヶ谷駐屯地に武器を持って乗り込み、拡声器も使わずに「国軍として立ち上がれ」と叫んだが、三島のこの魂の声は自衛隊員たちの醜悪な野次と軽蔑の声に掻き消され虚しく風に消え、失望した三島は自ら腹を切り命を絶った。三島由紀夫は時代に敗北した。しかし、半世紀経た今でも日本人の誰もが三島由紀夫という男がかつて存在した事を知っている。三島由紀夫は生前、1954年に公開された本多猪四郎監督の特撮映画「ゴジラ」が滑稽と酷評される中で「核兵器のメタファーとして非常に良く出来た映画だ」と礼賛したらしいが、現代の日本人は映画だけでなく本やインターネット、メディアでの言説を点で捉える事しか出来ず、点と点を繋ぐ線として歴史的分脈や文化的背景、制作者の意図や真意について考える事ができない事が心底悔やまれる。独立国家として必要不可欠な福祉としての教育の現代における役割は、基礎的な知識と社会性を育む事と共に物事を自らの頭で考える能力を育むことにあると思う。いま、日本は大きな転換期にある。三島由紀夫が日本の国樹である桜の花弁のように散り、その跡に我々が青々とした葉桜の葉として存在するなら、国粋主義や民族主義に奔らず他国の歴史的文化と伝統的価値観を尊重しつつ、この葉散るまで和の精神を持って誇り高く生きるのみにある。
小説「遺言」
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物にならぬよう気をつけねばならない。深淵を覗き込む時、深淵もまたお前を覗き込んでいるのだ」
1
「We don't need no education.(教育なんて必要ない)」
僕の頭の中では幼い子供たちの声で、いつもこの言葉が腐乱死体に群がるハエのようにぐるぐると、怠惰な日常に犯され腐った脳みその周りを旋回していた。
決まりきった進路、予定調和の授業の繰り返し、ありきたりな噂話、何一つ刺激のない毎日は現実と言うにはあまりに現実的すぎて虚しさを通り越して絶望しかなかった。
カツカツ、というチョークの音は右から左へ頭の中を流れ、体温で湿気り蒸発して淀んだ教室の空気に消える。僕は出席番号で決められた席から窓の外を見ていた。大型トラックが半島に向かうために行き交う産業道路が目の前にあって、そこから出る騒音と排気ガスを防ぐために異様に長く大きな壁が学校を取り囲んでいる。そのせいか空をずっと狭く感じた。勉強の出来不出来で受験というふるいにかけられて、同等の頭脳を持った人間に選別される。その後は名前で決められた番号を割り当てられ、その後は背の低いヤツから高いヤツ。僕にとってそういう全部が記号だった。あの空を狭くしている壁もあって、いつからか僕はここをどこか異国の強制収容所のように思っていた。教師は監視員で生徒は強制労働者。こんな毎日が続くくらいなら、いっそガス室で殺して欲しい。そんなことばかり考えている時、僕はあるミュージシャンの言葉に出会った。
「高校生の最後の学年だった。春先の暖かい日だってのに、惨めな教室に座らされてた。ここを抜け出せたらなって思ってるうちに、ハッと気がついた。『もし今飛び出さなければ、一生この部屋で過ごすことになる』ってね。俺は外の森に向かって踏み出した。その日だよ、ミュージシャンになろうって決めたのは。以来、俺は自分の好きな時に出かけるようにしてるんだ」
この言葉が人一倍怖がりで臆病な僕を変えた。僕はすぐに退学届を書き教室を飛び出した。
その後、ギターを一本持って家を出た。
これが僕の物語の始まり。
2
「へぇ、すごいね」
アヤがその黒目がちな大きな目をくりくりと丸めながら言った。オレはすごくないよ、と返した。
「すごいのはイギー・ポップだ」
パソコンで日課であるiPodのアルバムを整理しながら無表情に答えた。
「だから、多少ギターが弾けるだけで学歴はないし、知っての通り金もないんだ」
「貯金なくなったらどうするの?」
「死のうかな」
半笑いで僕は言った。アヤがゲラゲラと笑った。アヤは変わった子でビョークとデヴィッド・リンチが好きな美大出身の25才。死にたいと話すと、目を輝かせて喜ぶから僕は気に入っていた。
「アヤちゃんこそ働かないの?」
「なんかずっと落ち込んでるから」
アヤが顔を曇らせた。
「まぁ、いいんじゃない?しばらくは親が金くれるんでしょ」
「まぁね」
「でもさ、ニートが一番しんどいよ。生きること自体が仕事みたいになって心の休まる時間がない」
僕が仕事を辞めて一ヶ月が経った。また三ヶ月しか続かなかった。こんな感じでもう10回は辞めていた。財布が空になったら、コンビニから求人誌を貰ってきて適当に仕事を探した。時間も職種も問わないから簡単に仕事にはありつける。若いっていうのが強いんだろうけど。それにしても、ほとんど中卒の僕に仕事があって立派に大学まで出た人間が「就職出来ない」と言って自殺しているんだから可笑しな世の中だと思う。
変なメロディの鼻歌が聞こえた。アヤがスケッチブックを持って絵を描いていた。アヤは機嫌が良くなるといつも僕の知らないメロディで鼻歌を歌う。何の歌?と聞くと、自分で作ったと言う。僕が知らなくて当たり前だ。
「何描いてるの?」
「カミちゃん」
「オレ?上手く描いてよ」
ちらちらと僕の顔を見ながら、アヤはスケッチブックの上で鉛筆を走らせた。
「へぇ、髪の毛は生え方で描くんだね」
返事がないので僕はパソコンで今の気持ちに合ったアルバムを探した。でも、今はアヤもいるから彼女の気分にも合いそうなものを。あった、ポーティスヘッドの『Dummy』。気怠いビートに乗ってベス・ギボンズの妖しげな歌声が部屋中に響き渡った。
「この曲なに?」
予想通りアヤがアルバムに反応した。
「アヤちゃん、デヴィッド・リンチ好きでしょ?これ似合わない?」
「いいね」
僕は暇潰しにネットで“デヴィッド・リンチ”と検索した。
「今、渋谷で『デヴィッド・リンチ展』やってるよ」
「ほんとに!?中野から近いし行こうよ!」
2012年の初夏。僕は21才で未来のことなんて全く想像出来ずにその日その日をただ無為に生きていた。
3
午後1時。約束の時間になってもアヤから連絡がないので環七通り沿いを歩いて都立家政駅方面のアヤの家に向かった。途中の野方駅の辺りは中野駅よりずっと人が少ないし、昔から続いている商店街やコンビニも多いから僕はよく通っていた。アヤの家には僕の家から歩いて10分で着く。
アヤのアパートに着いてインターホンを鳴らした。何度鳴らしても返事がないので、アパートの裏手に回ってアヤの部屋の窓硝子を叩いた。それでも返事がないので窓を開けて声をかけた。
「おい、起きろよ」
丸まった掛け布団の中からアヤが顔を出した。
「えー、何で?」
「何でって、今日『デヴィッド・リンチ展』に行くんだろ?」
アヤはハッ、と思い出したようで、布団から跳ね起きた。
「ごめん、今支度するからちょっと待ってて」
僕は窓を閉めて、ポケットからタバコを出した。しばらくタバコを吸っていると、いつも通りの赤と黒の派手なファッションに身を包んでアパートからアヤが出てきた。
「それにしても、相変わらず汚い部屋だな。少しは片付けたら?」
「んー、そうだね」
どうせ片付けないだろうけど床にご飯粒の付いたしゃもじと絵筆が並んで置いてあるのは流石にない。
中野駅へ向かう途中、駅前のあおい書店に寄って森鴎外の『ウィタ・セクスアリス』を買った。
改札をくぐり、昇りのエスカレーターに乗ってホームへ出た。
「何か飲む?」
備え付けの自販機の前でアヤに尋ねた。
「コーヒーがいい」
ガチャン、と音がして、缶コーヒーが出た。自分の分も買って電車を待った。
電光掲示板に目をやると「人身事故により運転を見合わせています」という文字があった。
「また飛び込みかな」
「中央線って多いよね」
しばらく待つと電車が来た。新宿まで乗って山手線に乗り換えて渋谷に向かった。
渋谷に着くと一端ハチ公口に出てこれからの予定を考えた。目的の会場は反対側で今年の四月に出来たばかりの“渋谷ヒカリエ”だが、時間もあるので垣根に座り一服しながらスクランブル交差点で人間観察をする。
「都会ってハゲてる人多いよな」
アヤがゲラゲラと笑う。アヤの笑い方は本当にゲラゲラという表現がピッタリで品がなく、大口を開けて笑うのだが、そこまであけすけだともはや愛嬌がある。
「ストレスかな」
「カミちゃんはハゲないの?」
「オレはハゲないよ。親父も祖父さんもフサフサだし」
アヤが僕の頭を眺めてふーん、と声を漏らした。
「カミちゃんって実家はどこだっけ?」
「愛知」
「たまに帰るの?」
「全然」
僕はタバコの火を消しながら答えた。地元に良い思い出はないし、両親の反対を押し切って上京してきたから帰りたいとは思わなかった。
「アヤちゃんはどこだっけ?」
「千葉だよ」
「やっぱり、親も変わってるの?」
「んー、近所からは変わってるって言われてるけど、あたしはそう思ったことがないなぁ。でも、小さい頃は子供番組を録画したビデオの隣りに『死霊のはらわた2』があってそれを見せられてたな」
「英才教育じゃん。それで今のアヤちゃんが出来上がったわけか」
普段の行動はのろのろとしていてボーッとしていることの多いアヤが、絵を描くと何故グロテスクなものになるのか妙に納得した。人間観察にも飽きた僕らはヒカリエに向かった。
渋谷駅の中を通り抜けて宮益坂口に出ると右手の頭上を連絡通路が延びていて黒っぽい色の建物に繋がっていた。
「なんだ、駅から直結してるんじゃん」
ヒカリエに入りエレベーターで8階のフロアの一角にある小さなギャラリーに行くとモノクロのリトグラフや水彩画が飾られていた。
「なかなか良いね」
僕は壁伝いに絵を眺めながら歩いた。この日以外にも家から近い中野や高円寺のギャラリーに行くことがあったが、鑑賞の仕方が違うので会場ではアヤとは基本的に別行動だった。僕は気に入った作品に出会うまでゆっくりと歩きながら鑑賞するがアヤは一枚一枚を時間をかけて鑑賞していた。結果的に僕の方が早く見終わって、大体外でアヤを待つことになる。
ギャラリーの外にあるベンチ座って、さっき買った本を読んでいるとしばらくしてアヤがギャラリーから出てきた。
「買っちゃった」
満足げな表情でパンフレットを見せつける。
「何気に金あるんじゃん」
「週に一回、二時間だけ働いてるからね」
「そうなの!?」
「高円寺のスナック。今度来る?」
アヤはまともに働ける人種じゃないと思っていたから衝撃だった。それとアヤが自分よりも積極的に社会に関わって生きていることに少しだけ引け目を感じた僕は行くよ、と虚勢を張って答えた。
中野駅から一緒に歩いて、僕の家の前で別れた。アパートの部屋に入ってロフトの階段を登り、立地の問題で一度も天日干ししたことのない布団に横になった。
この時はまだこれから起きる一夏の恋物語なんて僕は知らなかった。
4
午後7時。僕は財布に金があるのを確認すると家を出た。環七通りまで出て通り沿いに南へ行けば高円寺だ。イヤホンを耳に着けて編集済みのiPodをいじる。ジェイムズ・テイラーの『One Man Dog』が軽快に流れた。このアルバムは彼のアルバムの中でも特にリズミカルで梅雨明けのまだ涼しさの残る夜にはピッタリだ。
高円寺駅の改札口まで行くとアヤが待っていた。
「カミちゃん、こっちだよ」
高架下の飲食店街を歩いてすぐの場所にその店はあった。
「こんばんわ」
扉を開けてアヤが挨拶をしたのに続いて僕も店に入った。
「いらっしゃい」
カウンター越しに笑顔で迎えてくれたのは銀縁の眼鏡をかけ口元に白髪混じりの豊かな髭を蓄えた老人だった。
「友達を連れてきました」
アヤが僕を紹介すると僕は軽く会釈をした。
「この人がマスターの山野さん」
アヤが紹介する間、山野さんは終始笑顔だった。
「山野さんは音楽やってるんだよ。カミちゃんも詳しいし、何か話しなよ」
「君はどんなのが好きなの?」
カウンターに焼酎の水割りが置かれた。
「デヴィッド・ボウイとルー・リードとピンク・フロイドとドアーズかな」
「60年代から70年代のロックか。オレもその頃の音楽はよく聴くしバンドでもやってるよ」
店の隅に小さなアンプとギターが置いてあった。
「あれ、山野さんのですか?」
「そうそう、よっと」
山野さんがカウンターの中から出てきてギターを握った。
「こんな感じにさ」
と言って『ホテル・カリフォルニア』のイントロを弾きだした。
「これアヤが好きなんだよな」
「うん」
山野さんが毎回作ってきてくれるというステーキ弁当を頬張りながらアヤが頷いた。
「アヤちゃんも意外と知ってるよね」
「子供の頃、何故か目覚まし時計のメロディがこれで、お父さんに『それは麻薬の歌だから聴くな』って取り上げられたんだ」
相変わらずアヤの幼少期のエピソードには笑いが尽きない。
僕はアヤに二杯目の水割りを頼んだ。
「この前さ、ゲイリー・オールドマンが“シド・ヴィシャス”をやってる映画観たよ」
「何て映画?」
「『シド&ナンシー』、けっこう古いよ」
ツンツン頭で酒瓶を片手に革ジャンに安全ピンをつけた服を着て、ロンドンの裏通りをうろつくゲイリー・オールドマンの姿を脳裏に浮かべた。
「『時計仕掛けのオレンジ』も観たけど、あれもパンクだね」
「あたし、DVD持ってるよ」
グラスに焼酎を注ぎながらアヤが言った。
「60年代のイギリスに産まれてたらアヤちゃんは絶対、パンクやってるよ」
「そうだと思う」
「ヤクやってさ、浮浪者みたいに路上生活して。そういえば、昔短髪にしてたって言ってたじゃん?」
「あぁ、あれはアニー・レノックスだよ。赤く染めてさ」
「ユーリズミックスか。なかなか渋いね」
ぐい、と一気に二杯目の水割りを飲み干した。
「もう一杯」
「ペース早くない?大丈夫?」
「いいんだよ。早くくれ」
アヤが渋々、冷蔵庫から氷を出してきて水割りを作り僕の前に差し出した。
カウンターの隅のウイスキーボトルが目に入った。
「それなに?」
「山野さんのお酒」
「ちょっと貸して」
山野さんがギターを弾きながら歌っている隙に蓋を開けてグラスに注いだ。
「ヤバいって」
「気付いてないよ」
アヤのバイト時間が終わるまでそんな事を繰り返しているうちに僕はベロベロに酔っぱらった。
「ごちそうさまでした」
「あれ、カミちゃんやけに酔っぱらってるな」
山野さんが相変わらずの笑顔で僕に聞いた。
「弱いんです、酒」
適当に誤摩化して店を出た。
午後10時を過ぎると駅の周辺も人は疎らで路地裏へ行けばまず人はいない。ふらふらと歩いて僕は道路脇にあったゴミ袋の山にダイブした。
「オレはトカゲの王だ!」
両手でゴミ袋を掻き分けながらひたすらに殴り続けた。
「カミちゃん、やめなって!人が来るよ」
アヤが必死に止めに入る。
「国がこの腐った世の中をどうにかしてくれたらやめてやるよ!」
道路に転がり出たゴミ袋に思い切り蹴り込むとビニールが破れて、中からコンビニ弁当の残りが辺りに散乱した。コンビニ弁当の他にも、まだ履けるランニングシューズに使用済みのコンドーム、意識は朦朧としていてもそういった現代の日本人の生活は視界の中に鮮明に映り込んで僕の怒りを増幅させた。
「やめなって!」
捨てられた棒状の蛍光灯を何度も踏みつける僕にアヤが言った。
「飲み過ぎだって、早く寝た方がいいよ」
「ああ」
僕は素直に二三歩、アヤに引きずられて歩いた後、アヤの腕を振りほどいて全速力で引き返しゴミ山に思い切り蹴りを入れた。
“クソ野郎!”
5
ヒステリックな女の叫び声で目が覚めた。
「アヤちゃん、ボリュームでかいって」
ロフトの階段を降りて、DVDラックを見るとキューブリックの『シャイニング』が抜き取られていた。
「心配して付いてきてあげたんだから、これくらいいいじゃん」
「まぁ、いいけど。っていうか、寝てないの?」
「うん、ゲームやったり映画観てた」
昨日の帰りに酔って暴れた後、僕は千鳥足でアパートに辿り着き、心配して付いてきたアヤに「適当に何か食べていいし、風呂も使っていいし、暇だったら映画でも観なよ」と言って寝てしまった。
「それにしても、よく独りでホラー観れるね」
僕はそんな映画を持ってるくせに独りでは怖くて観ることができないから、ぼりぼりとスナック菓子を食べながら映画を観ているアヤの隣に座った。ジャック・ニコルソンが瞳孔の開いたすごい形相で斧を振っていた。
「今日、どうする?」
「わかんない」
携帯の時計を見ると、午前11時だった。
「昼飯買ってくるわ」
そう言って僕は家を出た。一番近い野方駅のコンビニまで歩く。途中、ビルを横切る時に生垣からまた腐臭がした。もう二ヶ月は経っていた。アヤとここを通った時に僕が、
「たぶん赤ちゃんだよ、人間の。女子高生かなんかが子供作っちゃって捨てたんだよ」
と言うとアヤは大喜びだった。結局、腐臭の正体はわからないまま、それは僕の生活の匂いの一つになっていた。
コンビニに着くと菓子パンとコーヒーを二つずつ買ってアパートに帰った。
「ただいま」
部屋に入ると、アヤはテレビゲームをしていた。
「おっ、お帰り」
僕に気付くとアヤはゲームを中断して、コントローラーを年中出しっ放しのコタツ机に置いた。
「はい、昼飯」
と言って菓子パンとコーヒーを渡すとアヤは、
「わーい」
と喜んで食べ始めた。菓子パンの屑がぼろぼろと床に落ちた。パン屑くらいならまだしも、チョコレートをお気に入りのマットにこぼされた時には流石に参った。アヤは大抵、食べ物をこぼすし、茶碗にご飯粒も残す。些細なことだけど、僕とは全然違った感覚でアヤは生活していて、そんなところが僕とアヤの奇妙な友人関係を上手く行かせていたのかも知れない。
「これ食べたら、中野ブロードウェイに行かない?」
「いいよ」
パン屑がまたこぼれた。
中野には翌年の4月に複数の大学のキャンパスが出来るらしく、この頃クレーン車やシャベルカーが頻繁に道路を行き来していた。秋葉原よりも落ち着いていて生活感の溢れるサブカルチャーの都も新宿へのアクセスが便利だし、もうすぐ立派な学生街になって賑わいだすのだろうかと考えると、やっぱり寂しくなった。
中野通りと早稲田通りが交差する十字路を渡り100均やサーティワン・アイスクリームの前を通って中野ブロードウェイに入った。1階は金券ショップやお茶屋さん、喫茶店に日本一細長いゲームセンターとすでに混沌としているが、やはり見所は階段を登った2階からだ。何かの雑誌で“魔窟”と表現されていたこのフロアから上はゲームショップやマニア向けの中古玩具屋が並び、店と店の間を寂れた飲食店がひしめきあっている。
「おっ、『仁義なき戦い』のポスターだ!」
映画のポスター専門店で僕がはしゃいでいるとアヤが後ろから顔を覗かせた。
「なにそれ」
「えっ!観てないの?ヤクザ映画の金字塔だよ」
「ヤクザ映画は観ないなぁ」
「この面白さは男にしかわからないよ」
「カミちゃんって、ちょっと何か違ったらヤクザになってそうだよね。喧嘩っ早いし」
「それよりちょっと何か違うからニートなんだよ」
夢中になってポスターの陳列棚を漁る。
「うわっ!初代ゴジラもある!他のゴジラ映画は観ないけど初代だけは違って核兵器の恐怖を描いた名作なんだよ」
「ふーん」
と僕の熱弁を余所にアヤは全く関心を示さなかった。2階の後は3階に行って、まんだらけや映画グッズ専門店、ボードゲーム専門店、横尾忠則やアンディ・ウォーホルに紛れて江頭2:50のグッズがある雑貨屋、ミリタリーショップなどを二時間ほど散策すると、アヤは疲れた様子で言った。
「ちょっと喫茶店に寄って行かない?」
アヤに促される形で近くの喫茶店に入った。テーブル席に着くと、黒髪のショートヘアに黒縁メガネをかけた小柄な女性店員が注文を聞いた。
「オレはアイスコーヒー」
「私も」
注文を繰り返して確認すると、その女性店員はレジの向こう側のキッチンへ入って行った。
僕はタバコに火をつけて煙を燻らせた。
「アヤちゃん、見た?」
「なにが?」
アヤが間の抜けた顔で言った。
「あの子、可愛いな」
「あっ、店員さん?」
「ヤらせてくれないかな」
「また言ってる」
アヤが呆れた顔をして苦笑した。
「他にやりたいことないの?」
「ああ、ないね」
間髪入れずに僕は答えた。
「セックスできたら後は死にたい。エロスとタナトスだよ、まずは生きてる意味を味わいたい」
僕はいたって大真面目なのに、アヤはまたゲラゲラと品のない笑い声をあげる。
「でも、中野ってほんと良いよね。駅周辺にしかスーパーがないのは痛いけど、家賃は安いし中野ブロードウェイもあるし」
「そうだね」
「秋葉原はなんか大衆向きで、中野はマニア向きだよね」
あの女性店員がコーヒーを運んできた。テーブルにコーヒーが二つ置かれる。
「あの、これオレの番号」
紙切れに書いた自分の携帯番号を渡した。えっ、はいと確実に動揺している仕草をしながら女性店員は立ち去った。
「絶対、あの子引いてるよ」
「いいんだよ、これくらい」
やさぐれながらタバコをふかした。
「カミちゃん、顔は良いんだからさ。もっと堂々としてなよ」
「いいか、社会に出ると出会いなんてないんだよ。チャンスは自分で作らないと」
「まぁ、いいけどさ。そんなことしても本気さが伝わらないよ」
「本気じゃないからさ」
アヤは失笑してストローをすする。
「カミちゃんて本気のようで本気じゃなかったり、その逆だったりよくわからないよ」
「オレは“気狂いピエロ”だからさ」
僕はニッ、と作り笑いをしてみせた。
人生は“ゲーム”だ。目に見えるもの、聞こえるものの全てが作り物でエンディングも決まっている。そう考えると世の中の不条理も全く理に適ったことで、僕の存在自体も少しもおかしなものに思わなくなる。
悪いが“僕”というゲームのエンディングにはまだ少し時間がかかる。
6
枕元で携帯が震えた。僕は携帯を手に取り画面の通話ボタンを押した。
「カミ、生きてるか?」
電話の主は黒木さんだった。自分から電話をかけない主義の黒木さんからの連絡に驚いたが、相変わらずの様子にどこかホッとした。
「生きてるよ」
「今日、ちょっと飲みに行かないかなと思ってさ」
「いいよ」
「じゃ、7時にいつもの店で」
そう言うと電話は切れた。
僕は西武新宿線の野方駅から中井駅で都営大江戸線に乗り換えて西新宿五丁目に向かった。店は方南通りを東へ道なりに歩いて熊野神社前の交差点を渡りすぐの場所にある。
階段を登って自動ドアの前に立つとチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ」
着物姿の若い女の子が迎えに出てきた。
「ママいる?」
「いるよ、ちょっと待っててね」
適当にカウンター席に座って待った。
ポン、と肩を叩かれた。
「あっくん、いらっしゃい」
キープしてある焼酎ボトルを持ってママが現れた。
「黒ちゃんは来ないの?」
「もうすぐ来るよ」
黒木さんはこの店の20年来の常連で、僕がスナックに行った事がないと話すとこの店に誘ってくれた。
ママが僕の隣に座ってグラスに焼酎を注いだ。
「ママ、オレ人生に疲れちゃったよ」
僕はタバコをふかしながら項垂れて言った。
「なに言ってんの。若いんだからまだまだこれから」
「仕事も辞めたし、出会いもないしさ」
焼酎を呑みながら駄々をこねるみたいに言うと、ママが僕の背中を優しく撫でてくれた。
「今日はゆっくりしていきなよ」
ちょうど他の客が来たようでママはそっちへ行ってしまった。代わりに若い女の子が隣にやって来た。
「こんばんわ、サキです」
白い着物のよく似合う清楚な感じの女の子だった。この店はママを始め従業員が全員、着物を着ている。
ママがしっかり見立てているのか、どの子も着物が似合っている。
「それは浴衣だね。この花は紫陽花?」
「うん、たぶん」
僕は着物の袖を少し触った。
「生地は麻混だね。紋様の配置がちょうど良い。よく似合ってるよ」
サキは微笑みながら、
「詳しいんですね」
と言った。
「ただ着物が好きなんだよ。あと敬語やめていいよ、どうせオレは年下だし」
「えっ、おいくつなんですか?」
「いくつに見える?」
サキが眉間に皺を寄せて考える。
「30」
「年下って言ったじゃん」
「26?」
「残念」
本当の年齢を言うとサキは心底驚いていた。
「すごく落ち着いてるから」
「老けてるって言っていいよ」
と僕は笑った。
「ここのママと初めて会った時さ、オレの年齢を言ったら『随分、苦労したんだねぇ』ってしみじみと言われちゃったよ」
サキも笑って、少なくなった僕のグラスに酒を注いだ。
「今日は一人なの?」
「いや、連れがいるんだよ」
僕がそう言ったところで入り口のチャイムが鳴った。
「なんだ、ほんとに生きてるじゃん」
いつも通りの軽い調子で現れた黒木さんに文句を言った。
「黒木さん、遅いよ」
「いやぁ、雨が降ってきちゃってさ。歩いて来たよ」
黒木さんはこの近所に住んでいて、店に来るときはいつも折りたたみ式の高級自転車に乗って来る。実際の住所については黒木さん曰く「もし何かあった時に家がバレてたらお終い」との事で僕も知らない。
サキが席を一つずれて僕の隣に黒木さんが座った。
「最近どう?」
「カミが辞めてからは酷いよ。ヤマコフはブヒブヒ言ってるだけだし、要領の悪いヤツばっかりだからさ」
ヤマコフと言うのは僕らの職場の上司。仕事終わりに黒木さんと三人で公園に行き、僕らがすべり台を走って降りるのを見て感化されたらしく、滑り台の頂上から腰を浮かして小刻みに足を動かしているうちに何を思ったのか足を伸ばしきってしまって、その反動で身体が宙に舞い2メートル近く飛んで痛々しく顔面スライディングをしたことから、日本のバレーボール選手、齋藤信治(ノブコフ205)に因んで黒木さんが名付けた。
この行動から解るように彼は運動神経が皆無で動作が鈍く、仕事はとことんできない男で、僕が黒木さんと呑む時は話の半分が彼にまつわる逸話や、彼が職場に持ってくる重さ10キロはある真っ黒な鞄の中身の謎についてだった。
「30であれはないよ」
「自転車に乗れるようになったのも最近だしね」
「毎回言ってるんだけどさ、回収したペットボトルをビニール袋から一つずつ出すんじゃなくて、一回全部床に出しちゃってからみんなで分別すればいいのに、ちまちま一人でやってるから他の人はやる事無くなっちゃってふらふら歩いてるし。分別が終わったらどうせ床も洗うんだから、ほんとに要領が悪いよ」
サキがグラスとコースターを持って来て、黒木さんの酒を作った。
「あ、オレはソーダ割りで」
午後8時。この時間になると出勤する女の子も客も増えてきてカラオケも始まり店が賑わいだす。
「あっちに移ろうか」
店の奥にある座敷席の脇のボックス席が僕と黒木さんの定位置だった。三度目か四度目にこの席に座ったときに、何故この席なのかと黒木さんに聞くと、ここが設置されているカラオケ用のスピーカーのデッドスペースになっているかららしかった。
「カラオケ歌われるとさ、会話が聞こえなくなるじゃん。歌いたきゃカラオケ屋に行けばいいんだよ」
「でも歌うの楽しいじゃん、女の子が合いの手入れてくれるし」
「違うんだよ、カラオケ歌う人ってのはさ、大体女の子との会話がなくなって『何か歌いますか?』なんて薦められて調子に乗って歌っちゃう人なんだよ。客が歌ってる間、手拍子打ってるだけで女の子は仕事しないでいいんだからサボりと一緒だよ」
とわかるようなわからないような持論を展開するのが黒木さんの常だった。
黒木さんは僕の倍の人生を生きている42才。とにかく父親が大嫌いで小学生の頃から「親の力を借りず生きるため」と銘打って、ゴミ捨て場から金目の物を拾ってきて売ったり、学校で忘れ物コーナーに長期間放置されている物を貰い換金して食費を稼いで生活していた。生まれは東京の上石神井で、地元の高校にも通ったが大の雨嫌いで「雨の日は休む」というポリシーのもとに雨が降ると登校しなかったらしく、なんとか留年はせずに三年間は通ったが結局卒業証書は貰えず退学になったらしい。
黒木さんは僕の前の職場の同僚で、僕の入社の一週間後に入ってきた。だから厳密には僕の後輩にあたるわけだけど僕はすぐに辞めてしまって、勤務期間は黒木さんの方が圧倒的に長いから今ではお互い敬語を使わない。手先が器用で要領が良く機転が利き、工具や配管についての知識もあるため清掃兼何でも屋みたいなこの仕事では大活躍だった。
「仕事辞めてから毎日何してんの?」
「金もないし、ほとんど部屋に籠ってるよ」
「自宅警備員じゃん」
「毎日生きてても何も良い事はないし、どうやって死ぬのがベストか考えてる」
僕が新しいタバコに火をつけると黒木さんもタバコに火をつけた。
「オレは『人生30年計画』ってのを立てて生きて来たけど、なんだかんだでこの年まで生きちゃってさ。今年の12月23日に人類が滅亡するっていうマヤの予言があるじゃん?オレはそれだけを希望に生きてるんだよ」
「どうせ世界は終わらないよ」
投げ遣りに僕は吐き捨てた。
サキが氷入れを持ってやって来た。
「何のお話をしてるんですか?」
「人類滅亡の話」
「えっ、なんですかそれ」
黒木さんがマヤ暦の周期性が云々と説明を始める。議論や意見を言う時にはとことん論理的な考えを話す癖にやたらとオカルトには詳しい。
「だから人類は滅亡するんだよ」
黒木さんは満足げに力説を終えた。
「へぇ、すごいですね」
と相槌を打ちながらサキが僕の灰皿を取り替えた。
「ごめんね、この店に来るとけっこう吸うからさ」
「全然大丈夫」
サキはそう答えながら僕のグラスに浮き出した水滴を拭いた。
「ねぇ、サキちゃんって彼氏いるの?」
「えー、今はいないよ。欲しいけど」
「オレと付き合っちゃわない?」
「でも、あっくん年下だし」
「オレは年上が好きだから」
サキの目を見てそう言うと黒木さんが口を挟んだ。
「こいつはやめた方が良いよ」
「なんでそういうこと言うんだよ」
「カミは人に心を開いてるようで実は開いてないっていう一番タチの悪い人間だから」
「『心は開かない』って宣言してる人間に言われたくないよ」
そこまで見抜いてるのに僕が職場を辞めてからも付き合い続けているなんて心底変わった人間だと思った。
僕は人との縁を切って切って生きて来た。アヤや黒木さんといった人間はいるけど、どれもインスタントな関係でいつでも切る事ができるようにしている。僕が故郷の街を飛び出して東京に来た理由は、東京という街に生きる人間の誰もが無個性に独立していて、投げ捨てられた空き缶のように全くの無価値だからだ。
全てが自己責任で、その全てに無責任なスタンスがまるでこれまでの僕自身の人生そのものだった。
ボトルを一本空けたところで終電が近くなり、僕は帰ることにした。
店を出たところで携帯が鳴った。
「もしもし?」
「カミちゃん、今どこ?」
アヤからだった。
「新宿で黒木さんと呑んでたよ。今から帰るけど、どうしたの?」
「ちょっと会いたい」
電話越しの様子から何か深刻な問題があることはすぐに分かった。
「わかった。30分で帰るから」
野方駅から急いで僕のアパートに向かうとアヤが部屋の前で座り込んでいた。
「どうしたの?」
と聞いても下を向いたまま黙っているので、取り敢えず部屋に入れて話を聞くことにした。
僕が部屋の電気を点けると、今度は玄関に座り込んでしまった。
僕がタバコに火をつけ、しばらく黙っているとようやくアヤが口を開いた。
「家に帰りたくない」
「なんで?」
アヤは黙ったまま泣き出した。
「今日は帰りなよ」
「なんで?いつもは泊めてくれるじゃん」
「今日は嫌だよ」
僕は座り込むアヤを避けながら玄関のドアを開けた。
「ね?頼むから」
僕がそう言うとアヤは立ち上がり、
「もう来ないから」
と言って僕の前を通り部屋を出て行った。
ドアが閉まる時、隙間から湿気を帯びた重たい夜風がそっと吹き込み、
「もう夏か」
と誰に言うわけでもなく僕は静かに呟いた。
7
「あ、また死んだ」
テレビ画面にバラバラになった肉片が散らばり大量の血が流れていた。
「こまめに回復しないからだよ」
パソコンをいじりながら僕は声をかけた。何度アドバイスしても上達しない。それでも懲りずにゲームをやり続けるのは、自称“ゲーマー”の性というものなのかも知れない。
アヤとの関係が修復するのにさほど時間はかからなかった。それには僕もアヤも根に持たないタイプであるのに加えて、なによりも暇を持て余していたからでそれは自然の成り行きだった。
気分転換にパソコンでアラニス・モリセットのロックなファースト・アルバムを流した。アラニスの瑞々しくも危うげな歌声を聞いて、
「これ、絶対にヤクやってるよね」
と笑いながらアヤに問いかけると、
「あぁ、だろうね」
と頬を掻きながらアヤが答えた。
「痒い」
この時期、アヤは頻繁に顔や腕をボリボリと掻いていた。
「虫にでも喰われたの?」
僕が心配して聞いた。
「あたし、日光アレルギーなんだよね。日射しが強いとダメなんだよ」
「まさに『太陽のせい』だね」
アヤがゲラゲラと笑った。アヤは絵画だけじゃなく、文学にも詳しかった。
「夏場はキツいよ。だから出歩くのは夜にしてるんだ」
「夜に出掛けるから、ああいう変な男に目をつけられるんだよ」
アヤはこれまでに何度もナンパまがいのことをされていて、その全てに連絡先を教えていた。
そのうちの一人と漫画喫茶に行った時に、その男が突然全裸になって襲いかかってきたという。それ以来、自分からは連絡をしていないらしいが、その男からはまだ連絡が来るらしい。
「オレが居る時はいいけどさ、いつも一緒には居られないから彼氏でも作りなよ」
「そうだね」
「オレと付き合う?」
笑いながらそう言うと、
「それいいね」
と真面目に返されてしまった。
「冗談だよ。アヤちゃんを女として見れないから」
「ほんとひどいよね、それ」
「オレは恋人が出来たら道を歩く時も道路側を歩くし、荷物も率先して持つタイプだから」
「っぽいよね」
と不機嫌にアヤが呟いてそっぽを向いてしまった。
「まぁ、機嫌直せよ」
と言ってビョークのアルバム『Vespertine』を流すと、さっきとは打って変わってアヤはご機嫌になった。
「そう言えばビョークの恋人って芸術家だったよね」
「マシュー・バーニーだったかな?現代アーティストだよ」
「現代アートはアンディ・ウォーホルしか知らないな」
パソコンの横に置いてあるバナナのキーホルダーが目に入った。
「これを買った中野ブロードウェイの雑貨屋にバナナの巨大クッションがあってさ、欲しいんだよね。チャックがついてて、開けるとちゃんと白い中身がプリントされてるやつ」
キーホルダーを手に取って見せながら説明した。
「いくらなの?」
「2万」
「高っ」
「誕生日プレゼントそれでいいよ」
「いつ?」
「4月21日」
「過ぎてるじゃん」
「三ヶ月遅れのプレゼントで」
「嫌だよ」
アヤがそう言ったところで僕は思い出した。
「あっ、今日は土曜日か。アヤちゃんバイトじゃない?」
「そうだよ」
「オレも行くよ」
午後7時にアパートを出た。この日、アヤは自転車に乗って来ていた。この自転車、買ったのは二ヶ月前らしいが、もうすでにボロボロでとても新車には思えない。木にぶつかったり転けたりしてこうなったらしいが、その理由は視力が0.1しかないのに眼鏡もコンタクトもしないで運転するからだった。一度だけアヤが自転車に乗っているのを見たことがあるが、左右にグラグラと揺れながらのろのろと早歩きくらいのスピードで走っていて、僕が飲酒運転したときの方がよっぽど安全だと思った。
「もうすっかり夏だな」
夜道を二人で並んで歩きながらしみじみと新しい季節を感じた。
「夏は恋したくなるな」
「そう?」
「誰か可愛い子いない?」
「いるよ」
アヤが自転車を押しながら平然と言った。
「えっ!紹介してよ」
「いいけど」
「何て名前?」
「ユリコさん。百合の花のユリに子供のコ」
「名前から可愛いじゃん。彼氏いないの?」
僕は浮かれた。
「たぶんいないよ。っていうか、付き合ったことないんじゃないかな?」
「今から店に呼んでよ」
「えー、急だからなぁ」
「頼むよ」
アヤが鞄から携帯を取り出してメールを打った。
「ユリコさんも忙しいし分からないよ」
この時は、何故か僕の正確無比な防衛本能は機能しなくてタガが外れていた。
それもこれも夏の見せた運命の予感だったのかもしれない。
8
店ではカラオケの90年代の懐かしいJポップや演歌のBGMが流れていた。客は僕一人で、アヤは皿洗い、山野さんは店の隅のスペースで相変わらずギターを弾きながら自作の曲やスティービー・ワンダーの「My Cherie Amour」や「Somewhere Over The Rainbow」を歌っていた。
僕はカウンターに座り、その歌をぼんやり聴きながら少しずつウイスキー・コークを飲んでいた。
「ユリコちゃん来ないの?」
カウンター越しに食器を拭いているアヤに話しかけた。
「この店、電波が入らないからわからないんだよ」
ほら、と言って携帯を見せた。
「あー、ユリコちゃーん」
わざとふざけてみせてカウンターにもたれた。
「そういえば、山野さんはユリコさんに会ったことあるよ。一回、あたしが出勤できないときに代わりを頼んだから」
「そうなんですか?山野さん」
「ああ、一回だけね」
背中を向けてギターのチューニングをしながら山野さんは言った。
「美人でしたか?」
「見方によれば美人かな」
「どんな子ですか?」
「アヤとは正反対だよ。しっかりしてるけど、どこかせわしない子だった」
「あー、ユリコちゃーん」
カウンターからクッションの良いボックス席に移動して倒れ込んだ。
その日は午前0時までだらだらと酒を飲みながら居続け、ギターを片付ける山野さんにもう閉めるぞ、と言われて店を出た。
しばらく歩いて高円寺駅の改札口の辺りでアヤの携帯が鳴った。
「わっ、ユリコさん高円寺にいるらしいよ」
「え、来てくれたの?」
「この先のコンビニにいるって」
環七通りの長い横断歩道を渡るとガードレールのあるコンビニの前で小さく体育座りをしている人が居た。
「あっ、あれだ」
アヤが小走りに駆け寄った。
「わー、来てくれたの?」
「うん、もう薬飲んじゃってヘロヘロだけど」
女子らしいノリの会話の後に、僕は酔いながらもできるだけ紳士的に自己紹介をした。
「神谷です。よろしく」
「岡です」
ハズレだと思った。目は若干離れ気味で一見魚のようだったし、服装は黒いリュックサックにスニーカーで女子らしさは全くなかった。身長は僕より20センチは低く、随分と小柄だった。「学校で一番の人気だった」と言うアヤの言葉に不信感を抱いたが平静を装い笑顔に努めた。
「けっこう待ちました?」
「いや、二時間くらいです」
「え、そんなに?連絡がなかったから、てっきり来ないと思って閉店まで店に居ちゃったよ」
「高円寺に着いた時には石木さんにメールしたんですけど」
ユリコがアヤを見て言った。
「ごめんね。あのお店、電波が入らなくてさ、さっき気付いたんだ」
アヤが申し訳なさそうにした。ユリコはアヤを名字で呼ぶし、アヤもユリコを“さん”付けで呼んでいることから二人はそれほど親しいわけではないのだと思った。
取り敢えず、そこから一番近い僕の家に向かった。その間、ユリコは「攻撃こそ最大の防御」と言わんばかりに喋りっぱなしで、警戒されているのがわかり「やっぱり苦手だ」と思った。
僕の部屋はロフトを合わせたら広いけど、下のスペースは五畳程度で冷蔵庫やコタツが場所を取っていて、三人になるとかなり窮屈だった。アヤはテレビが目の前に見えるようにセッティングされて、分厚いマットが敷かれた特等席に座って、ユリコはその隣に、僕はパソコンの前の安物の薄い座布団に座った。
「タバコ吸っても大丈夫?」
初めて僕の家に来るユリコに気を使って聞くと、
「大丈夫です」
とひとまず緊張が解れたのか、きょとんとした目をして言った。
「アヤちゃんとユリコちゃんは美大の同級生なんだよね?」
「はい。私は浪人してるけど」
「あ、じゃあ今年で26才か」
僕の兄と同い年であるという事実により一層彼女への興味が失せた。それでも呼んだのは僕だし、家にまで来ているのだから何か話さなくてはと思い会話を続けた。
「ユリコちゃんは今何をしてるの?」
アヤは最高にくつろぎながらテレビゲームをしていた。
「専門学校でアートの勉強をしてるけど、ほとんどニートみたいな状態です」
「アートって、現代アート?」
「はい」
「なんか難しそうだね。絵画なら少し解るけど」
「どんなのですか?」
「浮世絵と日本画が好きで北斎、広重、写楽はもちろん素人ながらも光琳の装飾性はいつ観ても素晴らしいと思うし、国芳みたいな変わり種も好きだよ。明治なら大観と、御舟や魁夷の幻想的な作品が好きだな」
「けっこう詳しいんですね」
「青春は芸術に捧げてしまったからある程度は解るよ。でも、絵画を見るなら実物に限るね。東京国立博物館で見た岩佐又兵衛の『官女観菊図』には感激したな。ネットや本で充分だって言う人もいるけど、絵画の視覚的なトリックや臨場感までは堪能できないからさ」
「そうですね」
「現代アートってさ、ただのタバコの吸い殻とか便器が作品なんでしょ?」
「デミアン・ハーストにマルセル・デュシャンですね」
「芸術の本質は情緒だと思うんだけど、ああいう作品には情緒を感じないんだよね」
「人間と他の動物の違いって何か分かりますか?」
ユリコが真剣な表情で言った。
「二足歩行とか?」
ふざけて答えてもユリコは表情を崩さなかった。
「それは物事に意味をつけることができるということです。現代アートは作品の時代における意味やメッセージを読み解くのを楽しむものなんです」
「つまり社会性があるわけか」
「そうです。それに政治性も。アートにおける政治性についてどう思われますか?」
「いいと思うよ、意味はないけど。芸術で政治的メッセージを発信したところで世界は変わらない。ただのマスターベーションだよ。それは歴史が証明してる」
だから僕は音楽に失望し、辞めた。
そんな話をしていると時計はいつの間にか午前2時を廻っていた。
「もう寝ようか」
部屋の灯りを消して和紙造りの間接照明の灯りを点けた。
「悪いけど音楽だけは流させて。習慣なんだ」
コンポの電源を入れると、スピーカーからハロルド・バッドの虚ろな旋律が部屋を悠々と漂い始めた。僕はロフトの階段を登り、布団に横になった。
まさかこの女性があんなにも激しく僕の魂を揺さぶることになるなんて知りもせずに。
9
目が覚めたのは午前7時を過ぎたあたりだった。睡眠不足でぼんやりとした頭を抱えながらロフトの階段を降りると、アヤはコタツ布団を被り爆睡していて、その隣で座りながらユリコが荷物をまとめていた。
「おはよう。寝れた?」
ユリコは瞼を重たそうにしばしばさせながら、
「薬が切れちゃって寝れませんでした」
と笑った。
「もう帰る?」
「はい」
「駅まで送るよ」
野方駅に向かう途中、ふと思ったように僕はユリコに話しかけた。
「ユリコちゃんって人生つらいでしょ。オレと同じ匂いがするもん」
ユリコはニッコリと作り笑いをしていた。
駅の改札口でユリコを見送って僕はアパートに帰った。
「おい」
アヤの背中を軽く蹴った。
「あれ?ユリコさんは?」
眠たげにアヤが目を覚ました。
「今帰ったよ」
「そっか」
「ほんと、人の家でよくそんなに熟睡できるな」
僕はただ呆れて言った。
「だって、カミちゃんの家居心地が良いんだもん」
アヤがコタツ布団に包まった。
「オレなんかどんなに仲の良い友達でも同じ部屋に居たら寝られないよ。今日なんてユリコちゃんも居たし。もうちょっと寝るから帰る時は鍵かけてポストに入れといて」
そう言って僕はロフトの階段を登りまた眠りについた。
それからアヤが僕の家に来る度に「二人だけだとつまらないから」とユリコにも声をかけるようになった。
「ところで、二人は付き合ってるの?」
ある日の夜、僕の家で各々自由にやりたいことをしているとユリコが言った。
「いや、ないね」
初めてアヤと声が揃った。
「アヤちゃんは男友達と変わらない」
「カミちゃんは女々しくて安心するだけ」
とお互いに異性として見ていないことを主張した。
「何度も泊まってるって言うし、てっきりそうなのかなって」
「実はオレ、ゲイなんだ」
と僕が真面目に言うと、
「あ、そうだったんだ。私の友達もゲイなんです」
と納得のいった顔をしてユリコが言った。
「ユリコさん、それ嘘だよ。カミちゃんが真面目なフリしてる時は、大抵噓ついてる時だから」
「え?そうなの?」
アヤの言葉に早くもユリコは混乱していた。
「オレ、童貞だし」
混乱しているユリコを置いてけぼりにアヤと僕はゲラゲラと笑った。
「ね、ユリコちゃんオレと付き合ってよ」
「え、私なんてもったいないよ。カミちゃんイケメンだし」
「イケメンじゃないよ。ね、いいからさ」
僕はグッ、とユリコに近づいた。
「いやいや、イケメンだよ。私なんかじゃ本当にもったいないって。他に若くて良い子が絶対にいるから」
「わかったよ」
僕は萎れて仰向けに寝転がった。
「じゃあさ、今度の夏祭りに一緒に行かない?デート。オレ、高校に行ってないし、青春らしい青春がなかったんだよね。だからずっと憧れてるんだ」
「お、弟も連れてっていい?」
ユリコがおろおろと目を泳がせながら言った。
「いや、弟も来ちゃったらデートじゃないじゃん。っていうか弟がいるんだ」
「うん、6才下と15才下に」
「え!けっこう離れてるね」
その日もアヤとユリコは僕の家に泊まっていった。初めはなかなか眠れないようだったが何度も泊まっているうちに、「カミちゃんの部屋、不思議と落ち着く」と言ってユリコもちゃんと寝れるようになっていた。
僕はロフトの上から二人が眠りについたのを確認するとコンポの電源を落とし、間接照明の灯りを消して静かに眠った。それからも何度か三人で遊ぶようになった。僕が出不精なのとアパートが駅から近いこともあって、遊ぶのはいつも僕の家だった。
「これ着けてみて」
ユリコがリュックサックから取り出したのは茶色い糸が長く束になったもので、
「なにこれ?」
と僕が聞くと、
「エクステだよ。カミちゃん似合いそうだから」
とそれを僕に手渡した。
「嫌だよ、オレ女じゃないし」
「いいからいいから」
強引に勧められて髪に着けてみた。
「どう?」
テレビゲームをやっていたアヤがチラッと僕を見て吹き出した。
この頃になるとユリコも慣れたのか初めて会った時とは変わり彼女の素顔を見せるようになっていた。
僕はこれまでの人生つらいことばかりでろくな思い出もない。しかし、ユリコは自分と同じくらい、もしくはそれ以上の人に言えない苦労をして来たんだと思った。ユリコはとても優しく、思い遣りのある心の綺麗な女性だった。そして、本当はのんびりとした性格なのに「自分はしっかりしないといけない」という強迫観念にも似た何かが彼女を焦らせていた。
ある雨の降る夜、ユリコが傘がないと言ったので、僕は玄関にあるコンビニのビニール傘を渡した。数時間後、携帯にメールが入った。
“傘ありがとう。今度返しに行くね”
数日後、ユリコはその傘を持って僕の家に来た。これが初めてユリコと二人きりで会った日だ。アヤがいないと部屋の空気も少し違って、僕はいつものようにパソコンをいじっているからその流れでパソコンの前に座布団を二枚並べて二人でYouTubeを見ることになった。
「ユリコちゃんはどんな音楽聴くの?」
「私はアニソンしか知らないよ」
「オレは全然アニメ見ないかならなぁ。知ってるのはこれとか」
僕は『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌を流した。
「うん、これも知ってる」
「まぁ、アニメの方は見たことないんだけどさ」
「あと、これとか」
ユリコが僕の横から前のめりに身体を伸ばしてキーボードをカタカタと打って検索をした。
「カウボーイビバップ?知らないな。でもこの曲すごくソニー・クラークっぽい」
そう言ってiTunesを開きソニー・クラークの『Cool Struttin'』を流した。
「あ、ほんとだ、似てる。しかも、このジャケットそっくりのシーンもあったし」
「きっとオマージュだね」
「カミちゃんはどんなのが好きなの?」
「オレはこれとか。有名だから知ってるんじゃないかな?」
僕はバグルスの『Video Killed The Radio Star』を流した。
「あっ、知ってる!美大の頃、友達が聴いてて『アーワッ!アーワッ!』ってみんなが歌ってた」
「この曲は邦題が『ラジオスターの悲劇』って言って、アメリカのMTVっていう音楽専門チャンネルで最初に流された曲でもあるんだ。これを歌ってるトレヴァー・ホーンって人はプロデューサーとしても優秀でオレがミュージシャンとして最も尊敬する人物の一人なんだ」
「へぇ、やっぱり音楽詳しいんだね」
そうやってYouTubeに二人で夢中になっていると時間はあっという間に過ぎて夜も更けていった。
「あっ、もう終電ないよ」
午前1時を過ぎていた。
「えっ、どうしよう」
「泊まっていきなよ。アヤちゃんだってよく泊まってくし、ユリコちゃんも初めてなわけじゃないから」
「そうしようかな」
「オレはロフトで寝るから、ユリコちゃんはそこのコタツで寝なよ。クッションとか自由に使っていいからさ」
僕はロフトの階段に手をかけた。
「わかった」
「じゃあ、おやすみ」
そう言って僕は電気を消してロフトの階段を登った。
気配というのは正直なもので一時間経ってもユリコは眠らなかった。
「薬は飲んだ?」
ロフトの上から声をかけた。
「飲んだよ」
時間はどんどん過ぎていき小鳥のさえずりが窓の外で始まった。
「そっちに行っていい?」
性欲が言わせたのではないと今更言ってみても説得力はないが、それは何かプラトニックな孤独な心の渇望だった。
「うん」
下からユリコの小さな声が聞こえた。
僕はロフトの階段をゆっくりと降りてユリコの寝ているコタツ布団に入った。
「寝れなかったね」
と僕が笑うとユリコもそうだね、と笑った。カーテンの隙間から射し込んだ光で淡く白んだ天井を見つめながら二人は黙りこくり部屋は静寂に包まれた。何かの拍子に布団の中でユリコに触れる度に胸が高鳴った。
僕は身体を起こしてユリコに覆い被さる格好になった。
「キスしていい?」
これは間違いなく性欲だった。うん、と返事が聞こえた途端に僕の唇がユリコの唇に小さく触れた。
「オレのファーストキスだよ」
「私なんかでよかったの?」
「よかったんだよ」
神様とか運命とかそんなものを信じたことはなかったけど、この時初めて僕の魂は裸になって人肌の温もりを求めていた。
「エッチしよ?」
僕はもう迷わなかった。ユリコの目をしっかりと見つめてそう言うと、
「私、処女だよ?」
と、どぎまぎとしながらユリコは言った。
「そっか、オレたち付き合ってないもんね」
「うん」
「じゃあ付き合おうよ?」
「本気なの?」
「本気だよ」
僕は目を逸らさずに真剣な表情で言った。しかし、ユリコのぱっちりとした二重瞼の奥に光る瞳には、蛇に睨まれた蛙のようにびくびくと怯えながら身動き一つ取れずに硬直する気弱で軟弱な青年の姿が映っていた。
ユリコは目を泳がせながら言った。
「ごめん。付き合えない」
「なんで?オレじゃダメなの?」
「そうじゃない、そういうことじゃないの。私、人と付き合えないの」
「どういうこと?」
「そんな余裕がないって言うか、誰かと付き合ったり、ましてや結婚したりなんて想像できないの」
この言葉の意味はすぐには理解出来なかった。
「オレは『先天的失恋者』なんだな」
と薄ら笑いを浮かべて僕は布団を這い出た。
パソコンの前に座ってタバコに火をつけた。煙を肺の奥まで深く吸い込んでは吐いて自分の取った軽率な行動を恥じた。落ち着きを取り戻すと僕はパソコンの電源をつけてiTunesを開いた。堪らずに聴いたのはジョン・デンバーがアコースティック・ギター一本でカバーしたビートルズの『Let It Be』だった。
「Let it be,let it be Let it be,let it be(あるがままに、あるがままに、あるがままに、あるがままに)」
僕は思い切って口火を切った。
「“あっくん”って呼んでよ」
「え、でも」
「もうそう呼ぶ人がいる?それなら違う呼び方でもいい。下の名前で呼んで欲しいんだ」
「あつくん」
ユリコがそう言うと僕は笑った。
「オレの兄貴もそう呼ぶよ。何年振りだろうな、下の名前で呼ばれたのは」
ジョン・デンバーの歌が終わって、べット・ミドラーの『The Rose』のピアノ伴奏が静かに流れていた。
これが僕の恋の始まり。
10
あの日から僕はユリコにぞっこんだった。
どこにって?ユリコの顔も性格も匂いも仕草も全部だ。要するに恋は盲目だってこと。
7月の終わりから8月の頭にかけての三日間、ユリコは新潟の越後妻有に行ってしまった。“大地の芸術祭”とか言うアート関係のイベントがあるためだ。前回はアヤも一緒に行ったらしいが、長袖のシャツに帽子にスニーカーというユリコの格好に対してアヤは露出の多い服を着て靴はハイヒールを履いて行ったらしく、虫刺されと過酷な山道に足が耐えきれず、おまけに例の日光アレルギーで早々にダウンして新幹線で帰ってしまったそうだ。ユリコはこういった地方で開催されるアートイベントに頻繁に足を運んでいた。
私生活はと言うと、ユリコの事を“ユリちゃん”と呼ぶようになっていたし、ユリコは基本的に僕の家に泊まり、二三日に一度、自分のアパートに帰るという半同棲が始まっていた。
「お土産買ってきてよ」
「何がいいの?」
「なんでもいい。記念になるもの」
ユリコが新潟へ行っている間、目が覚めてから眠るまで僕の頭はユリコの事で一杯だった。だから、ユリコが帰ってきた日なんて大変なものだった。携帯にメールが入ると到着の一時間も前に野方駅で待ち、改札口でユリコを見つけると必死に手を振った。そして「恥ずかしいから」と言って嫌がるユリコの手を握りアパートに急いだ。
玄関を開けて鍵を閉めると靴も脱がずにユリコを抱きしめてキスをした。
「え!ベロチュー!?」
そこから先はお察しの通り。でも、大事な一線だけは越えていない。
「はい、お土産」
ユリコがいつものリュックサックから取り出したのは何か派手に文字が書かれたミシン目のある小さなボロボロの布切れだった。
「なにこれ」
「漁港で使われてた手ぬぐいを再利用したコースター」
「ユリちゃんって、プレゼントのセンスないね」
と笑いながら僕は受け取った。
炎天下の外気から壁一枚を隔てた24℃の部屋で間接照明の灯りに照らされて汗だくになるまで一日中抱き合った。
「いれていい?」
「私、付き合った人としかしないから」
「じゃあ、付き合おうよ」
「だから」
とユリコがいつもの台詞を言いかけたところで僕は激しくキスをした。
「もう!」
ユリコは顔を赤らめて身体を横に向けた。そうすると、しばらく僕はユリコをほったらかしにして裸のまま枕元にある本を適当に手に取って読み始める。
「ねぇ、朝起きて隣で寝てるオレが『毒虫』になってたらどうする?」
「病院に連れてく」
ユリコが横を向いたまま答える。
「ユリちゃんらしいね」
と僕は笑った。
ユリコが僕の方に向き直ると、僕は読んでいた本を置いてユリコの方を向いて目を見つめる。
「こんなに可愛い年下の男の子とこんなことするなんて思ってもいなかった」
ユリコの目はどこか遠くを見つめていた。
「オレもこんなに綺麗な年上の女の子とこんなことするなんて思ってもいなかったよ」
ユリコは猫が好きだった。野方は“猫の街”と言ってもいいほど猫が多く、ユリコと散歩をする時は決まってちくわを買って猫を探した。しゃがんで猫にちくわをあげるユリコの後ろ姿を見る度に僕は不安になった。いつかユリコもこの猫たちのように、気の向くままどこか遠くの場所へ行ってしまいそうな気がした。そんな不安定な関係に嫌になって僕は何度もユリコに告白をしたがユリコの答えはいつも決まってノーだった。
「私、人とは付き合えないの」
その言葉を聞く度に僕の心臓は軋んだ。その音は僕の肉体を通じて黒板に爪を立てて引っ掻いた時のように不快に全身の神経に響いた。
「学校に行かなくちゃ」
そう言ってユリコは服を着て準備をする。ユリコの学校は午後8時から授業が始まって午後10時頃に終わる。
ユリコが家を出た後、僕はパソコンの前に座りタバコを吸いながら音楽を聴いていた。
ペドロ&カプリシャスの『五番街のマリーへ』。リピートにして繰り返し何度も聴いた。
もし神様がいたのなら、あの時僕にもうその運命を教えてくれていたのかも知れない。
クーラーの効いた部屋で寝転んで、何もせずにただユリコが帰るのを待った。
午後11時にユリコは帰ってきた。
「あつくん、私考えたんだけど」
ユリコは真剣な面持ちで正座をしていた。うん、と覚悟を決めたように頷いてユリコは言った。
「そんなに自分を責めなくていいと思うの。もっと自分を好きになってあげて」
ユリコに僕の過去の話はほとんどしていない。それでも、出会ってからの短い時間の中でユリコは僕の何かを感じとったのだった。
僕の目からボロボロと涙がこぼれた。人に涙を見せたのは生まれて初めてだった。まるで産まれたての赤子のように嗚咽混じりに激しく咽せながら。膝をついて両手で目頭を押さえて必死に涙を止めようとする僕を、ユリコは優しく抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫」
僕の耳元で静かに囁きながら、その小さく細い身体で懸命に僕の壊れかけた心を抱きしめた。
11
「シド・バレットってミュージシャンがいてさ。作詞、作曲、ギター、ボーカルなんでもできる才能に恵まれた人で彼のセンスでバンドは売れたんだよ。でも、彼は人一倍繊細で成功と人気の反動からヤクに溺れてしまった。彼が抜けたバンドは音楽の方向性を変えて、いつしか彼がいた頃よりも大きな成功を手にしたんだ。そして彼についての歌を書いて、スタジオでバンドがギターパートを録音しようとしてる時、防音ガラスで隔てられたミキサールームのソファに見知らぬ男が座ってるのが見えた。メンバーの一人が、何故か妙に気になりミキサールームへ行ってみると、その男が声をかけてきたんだ。『やぁ、オレはどのパートを弾けばいいんだい?』バンドのメンバーはその言葉を聞いて男がシドだと気付いた。フサフサだったカーリーヘアは無惨にハゲきってしまい、体はぶくぶくに太っていた。『ギターはもう録り終えたんだよ』と言うと『そうかい』とにこやかに答えたんだ。その変わらない闇の向こう側を見つめるような鋭い眼差しを残してね」
僕はピンク・フロイドの『Wish You Were Here』を聴かせながら語った。
「このアルバムの邦題は『炎~あなたがここにいてほしい』って言うんだ。社会的なメッセージを歌い続けていたバンドが出した、たった一枚の人間的な情緒に満たされたアルバムだよ」
「悲しい作品なんだね」
ユリコがそう言った後に、僕はアコースティック・ギターを持って適当なブルースを弾いた。
「オレはシドについての歌は書けるけど、シドにはなれないんだってことだよ」
「あつくんはあつくんだよ。他の誰でもない」
「子供が戦隊ヒーローやロボットになりたいって言うでしょ?あれと同じだよ。オレは3歳児のまま成長が止まってるんだ」
「エッチなこと好きなくせに」
「フロイトも幼児の性欲について書いてるじゃん」
「その“リビドー”とは違うでしょ」
アヤと違いユリコには誤摩化しが通じず、笑いながら自然と僕の指はギターのGコードを押さえていた。
12
ユリコの家は野方駅から西武新宿線で西にずっと行った所にあった。あまりの田舎っぷりに同じ東京とは思えなかったが、一応東京ではあるらしい。
「人呼ぶの初めてだから掃除する。近くに公園があるからそこで待ってて」
そう言われて僕はアパートの部屋から追い出された。
公園のベンチに寝転がって空を見ていた。ここの空は広かった。時間を忘れて、ただただその空を見上げていた。
目を瞑ると蝉の鳴き声と共に風が夏空を駆け抜けて行く音が聞こえた。
鳥になって大空を自由に駆け巡りたい、と思ったがすぐに取り消した。空は人間がさほど気にしないだけで、気圧や気流の関係で思うほど自由にはなれない。
「生まれ変わりがあるなら草になりたい」
初めから居場所が決められていて、自由でないことの方が真の自由なのではないか。
パスカルは言った。
「人間は考える葦である」
それは違う。人間はただの人間でしかない。平和や自由といった嘘に翻弄されたまま年を取って老いて死ぬ人間なんだ。そこで僕は目を覚ました。
僕の視線の先には、そよぐ木に泊まった一匹の鳴かない蝉がいた。
13
一時間経ってもユリコから連絡が来ないのでユリコの家に向かった。
アパートの階段を登って部屋の前に立つと中からガタガタと激しい物音がした。
インターホンを押してからドアノブを握った。
「ユリちゃん、開けるよ?」
「あー!待って!」
ドアが開くと、中に白い頭巾を被り背丈ほどもある大きな箒を持ったユリコがいた。
「『魔女の宅急便』かよ」
と思わず言ってしまった。
清掃業の経験があるとどの場所にどんな用具が必要なのかおのずと解る。そして、この部屋にそんな大きな箒が不必要なことも。
部屋は空き巣に入られた後のような有様で必死に集めたのであろう塵の山がいくつもあった。
ユリコは片付けの出来ない女だったのだ。
「この広さなら15分でしょ」
「そんなことない!布団とか洗濯物とか、この机の上の」
どうたらこうたらと説明をしていたが、僕はその光景に唖然としてしまっていて耳に入ってこなかった。
「取り敢えず、これ!」
と言われて渡されたのは灰皿だった。
「わかった。オレ、ベランダでタバコ吸ってるから終わったら教えて」
ユリコがベランダに来たのはもう日が沈みかけた頃だった。夕焼けに滲んだ空にいつの間にか複雑な僕の気持ちも紛れ込んで溶けていた。
「ここ、良い所だね」
「うん」
「緑がたくさんあって落ち着くよ。やっぱり親父の血が強いのかな」
「あつくんのお父さんは何してるの?」
「田舎の高校教師だよ。宮崎から愛知の大学に出てきて、そのまま母さんと結婚した。だから、父さんの故郷の宮崎に小さい頃からよく行ってたんだ。ほんとにド田舎でさ、嫌になるくらい緑が綺麗なんだよ。夜になると、空いっぱいに星が広がってて子供の頃は同じ地球に思えなかったよ」
夕日が完全に沈む瞬間を二人で見届けると、
「部屋に戻ろ?」
とユリコが言って僕らはベランダを後にした。
ユリコの部屋に戻ると布団を敷き、コンセントに設置された災害時用のオレンジに光る電気だけを点けて、ここには書けないようなとても恥ずかしい行為をした。とは言っても、この時もまだ一線は越えていない。
「ダメだ」
行為の最中に僕が呟いた。
「やっぱりダメなの?」
「うん」
ユリコに対する申し訳なさと自分の情けなさが込み上げてきた。
「あの人に聞くしかないか」
ボソリとそう呟いて僕は携帯で電話をかけた。
「あっ、お疲れさまです」
「お疲れでーす。どうしたの?」
電話の相手はそう、黒木さんだ。友達は危ない人ばかりで自分も相当危険な経験をしている黒木さんは本当に何でも知っている。
「あの、実はイケないんだよ」
「え?何してんの?」
「いや、エッチなこと」
「はははは」
電話越しに黒木さんが笑った。
「笑い話じゃないんだよ」
ひとしきり笑い終えると黒木さんは言った。
「ヤクと一緒だよ。カミはさ、すぐ難しく考え込むじゃん?基本的に考え込むっちゅうのは悪い方向に向いていくもんなんだよ。ブルース・リーも言ってるだろ?『Don't think. FEEL!』なんにも考えないで、ただ感じるんだよ」
「そっか。わかったよ、ありがとう」
電話を切ると、僕は服を着てベランダに出た。
「大丈夫?」
僕がベランダでタバコを吸っているとユリコが心配して出てきた。
「いや、いいんだ。オレが悪いんだ」
「ほら、またそうやって自分を責める」
バチンッ、と背中を思い切り叩かれた。その勢いで顔を上げると夜空を星が流れた。
「あっ!流れ星だ」
言葉にした時にはもう消えてなくなっていた。
「あつくんって、たまにミラクル起こすよね」
「オレって運が良いんだよ」
僕がそう言うと二人で笑った。
14
僕が目を覚ますとユリコはまだすやすやと寝息を立てていた。薬のせいだろうけど、顔の力が抜けきってだらしなくなったユリコの顔を見るのが僕は好きだった。それは世界中の全てを敵に回したかのように気を張りつめながら、ぎこちない作り笑いを浮かべて生きているユリコが唯一安心しきったように見える瞬間だった。
ユリコを起こさないようにゆっくりと歩いてベランダに出て寝起きの一本に火をつけた。太陽はもうとっくに昇りきっていて、その日射しがギラギラとアスファルトに照りつけていた。
タバコを吸い終えると部屋に戻った。ユリコが自分で木材を切って作ったという巨大な机の上に置き手紙があった。
“今日は楽しかったね。これを書いているのはもう朝の4時で、今から薬を飲んで寝ます。たぶんお昼過ぎまで起きられないから、暇になったら靴箱に本があるので自由に読んでいいよ。ゆっくりしてってね。おやすみ” 百合子
玄関まで行って靴箱を開けると無造作に本が並べられていた。アート関係のガイドブックやファッション雑誌、地方の地図にオタクっぽい少女漫画ばかりで、小説は一冊もなかった。こんなこともあろうかと僕は鞄に入れて持ってきていた吉田兼好の『徒然草』を出して読んだ。その中の一節にこんな言葉があった。
「碁盤の隅に碁石を置いて、対角線上の、向こう側にある石に当てようとはじく時に、向こうの石を見つめながらはじくと当たらない。自分の手元をよく見て、手前の聖目(碁盤の目の黒点)を見つめながら、対角線上をまっすぐにはじくと必ず命中するものだ」
兼行はここで“自己本位”という言葉を使っている。それは自分勝手や利己的な行動と違い、自分の足場をしっかりと固めながら行動せよ、という意味だった。
それを読んで僕がユリコに告白した時に必ず言われる言葉の意味が少しだけ解った気がした。
ユリコの寝ている隣で本を読んでいると、いつのまにか僕はまた眠っていた。
僕が目を覚ますとユリコはもう起きていて部屋の隅に置かれた姿見で化粧をしていた。
「化粧しなくたって可愛いのに」
僕は体を起こしてユリコに近付いて後ろからそっと抱きついた。
「あつくん、起きたの?」
「化粧してもそんなに変わらないよ」
頬をすり合わせながら言った。
「私だからいいけど、他の女の子にそんなこと言ったらダメだよ」
丁寧に眉毛を書きながらユリコが言った。
「化粧用のコンパクトとかないの?」
「雑誌の付録でついてきたのはあるけど、こっちの方が良い。よしできた」
そう言ってユリコは化粧道具を仕舞った。
「今日も学校?」
「うん」
「じゃあ、オレは帰るよ」
「え、うちで待ってればいいのに」
「あんまりにも退屈だからさ、オレの家なら読みたい本があるし」
「えー、それなら私も行く」
「いいよ、来なくて」
「やだ、心配だから」
15
「生まれてきてごめんなさい」
ロフトから足をぶらつかせて呟いた。
「やめてよ、本気に聞こえるから」
「本気だからさ」
僕はヘラヘラと笑った。
案の定、ユリコは学校に行かずに僕の隣から離れなかった。
「ここから落ちても死ねないな」
「打撲くらいでしょ」
「やっぱり飛び降りは良くないな」
「だから、やめてって」
ユリコが嫌そうに言ったが僕は続けた。
「黒木さんが言うには電気が良いらしいんだよ。電極を心臓と脇腹に着けて眠る時間にタイマーをセットしておくんだってさ。そうすると寝ながら楽に死ねるらしい」
「私がそんなことさせないから」
「でも、ヒトラーみたいに薬飲んでから拳銃で頭撃ち抜くのが一番良いな」
僕がそう言うとユリコが顔色を変えた。
「私、ヒトラーなんて嫌い。ユダヤ人の虐殺なんてとてもじゃないけど許せない」
「アメリカがやった広島と長崎の原爆の方が遥かに酷いよ」
「それもそうだけど、ホロコーストは許せない」
「ナチス・ドイツは戦争に負けたから“悪”にされたんだ。アメリカが負けてれば今頃、歴史の教科書にはアメリカのやった悪事の全てが記されてるよ」
「ナチスは無知な市民を洗脳したりしたのに?」
「教育というのが洗脳だよ。そんなのどこの国だって当たり前にやってる」
僕は怒りを込めて吐き捨てた。
「ユリってリベラルだよね。左翼ってさ歴史の出来事に興味津々なくせに無力で何もできずに哲学書とか読んで知識人ぶってさ。信念がないというか、ただの野次馬だよ」
「じゃあ、あつくんは何なの?」
「オレは死ぬ時に『天皇陛下万歳』って叫ぶよ」
そう言うとユリコは冷たい目をした。
「ふーん。それから呼び捨てにしないで」
「すみません」
こんな話をするのはこの時が初めてだった。
それからユリコのことを僕は“ユリ”と呼ぶようになっていた。
16
8月15日。その日は、いつにも増してユリコはそわそわとしていた。この日はそう、終戦記念日だ。
僕は体調を壊して一日中、布団に包まって横になっていた。
「大丈夫?」
ユリコが冷却剤を買ってきて僕のおでこに貼った。
「これも買ってきたけど」
コンビニ袋には大量の栄養ドリンクどゼリー飲料が入っていた。
「今は飲めないから冷蔵庫に入れといて」
ユリコはわたわたとロフトの階段を降りて冷蔵庫に買ってきたものを入れた。
「それよりさ、国会議事堂と靖国神社に行きたいんでしょ。オレのことはいいから行ってきなよ」
「いいの。あつくんの方が心配だから」
そう言ってロフトの階段を昇り僕の枕元に正座をして座ると、うちわでゆっくりと僕を扇いだ。
夜を迎えると流石にユリコは残念そうだった。夜になってしまえば街宣車も人もいなくなって一年に一度きりの政治的な喧騒を見ることはできない。
「ユリ、もう遅いかも知れないけどさ、行こうよ。オレ、終戦記念日に靖国を詣ったことがないんだ」
僕は布団から身体を起こしながら言った。
「体調は大丈夫なの?」
「ああ、だいぶ良くなったよ」
ユリコは終始、僕の体調を心配していたがなんとか二人でアパートを出ることにした。
中野駅まで歩いて、中野から四ツ谷まで行き東京メトロ丸ノ内線に乗り換えた。電車の中で僕は頭一つ分も違うユリコの肩に頭を乗せて国会議事堂に向かった。
国会議事堂前に着くと、午後8時であってもちらほらと警察の姿が見えて無線で連絡を取り合っていた。
僕らが警察官の横を通ると、
「男女二名通過」
と警察官が無線に向かって言った。
「オレたち、恋人にみえるかな」
「そうなんじゃない?」
警察官に見える所で僕はユリコを抱きしめキスをした。
「んっ」
「こうしたらもっと怪しまれないでしょ」
そう言って僕が笑うともうっ、と言ってユリコも笑った。そのまま手を繋ぎながら門の前を通り過ぎて地下鉄に向かった。
靖国神社には中学校の修学旅行で初めて来た。他にも数度、一人で訪れたことがあったがいつも人がたくさん居て、夜の静まり返った靖国を見るのはこれが初めてだった。大鳥居をくぐり、拝殿に向かう広く長い道をたった二人でユリコと歩くのには感慨深いものがあった。その道の途中に銅像があってそこで立ち止まった。
「誰だろう、これ」
と僕が呟くと、
「大村益次郎。近代日本陸軍の創設者で、靖国神社の創建に携わった人だよ」
とユリコが答えた。
「へぇ、よく知ってるね」
僕は笑った。
神門は閉じられていた。それでも参拝者はいて閉じられた神門の前で力強く二礼二拍手一礼をして去って行った。
「私、ここで待ってるから」
ユリコは神門から少し離れた場所で立ち止まった。僕は一人で神門に向かった。そこにはお酒や花など多くのお供え物が並べられていた。僕は静かに参拝を済ませるとユリコのもとへ戻った。
「オレ、思うんだけど」
黙ったまま今来た道を引き返すユリコに言った。
「靖国神社に祀られてる人たちの多くは愛する人のため、これからの日本、そこに生まれる子供たち、つまりオレたちのために戦って死んでいったんじゃないかって」
「東条英機にもそれが言えるの?」
ユリコが語気を強めた。
「それはわからない。もちろん政治的な思惑や私利私欲のために死んでいった人もいると思う。でも、大半の人の胸にあったのは日本を愛する心、日本人を愛する心だったと思うんだ。だからオレは何度でもここに来る。ここに来て『ありがとう』って言いたいんだ」
「何に対して?」
「会うこともない、オレたちを愛してくれたことにさ」
17
8月も終わりに近づいた頃、僕はユリコと多摩川に花火を見に行った。
轟音と共に閃光の瞬きが暗闇にユリコの顔を白く浮かび上がらせた。
「きれい」
そう呟いたユリコの横顔はどこか寂しげで、僕はいたたまれなくなり目を逸らした。
花火が終わってコンクリートで固められた川岸に座っているとユリコが言った。
「ちょっと寄りたい場所があるの」
ユリコに連れられて歩いて向かった場所は花火会場から10分ほどの所にあった。大きな門があって、夜だということもあってかそれはしっかりと閉められていた。ユリコはなんとか隙間を見つけて必死に覗いていたが、その門の脇からは柵が長く続いていて忍び込むのは難しそうだった。
「あっちに回ろう」
手を引かれて柵伝いに坂道を歩いた。柵の隙間からはたくさんの木が植えられているのと、その奥に大きな建物があるのが分かった。坂道の途中で建物の一室から灯りが漏れているのに僕らは気付いた。
「あれ、何してるかわかる?」
部屋の中には何人もの人がいて床に何かを探すような動きをしていた。
「ゲームか何かかな」
と僕が言うと、
「体操だよ」
とユリコは答えた。そのまま、しばらくその場所に留まった。心なしか、ユリコの体が少しだけ震えている気がした。僕は立ちすくむユリコを抱きしめた。
「もし、今日の花火大会にあつくんと来なかったら、ここには来なかったと思う」
あの部屋を見つめたまま動かないユリコに僕はキスをした。
「ユリ、好きだよ」
柵伝いに建物を一周して最初の門のある場所に戻るとユリコは言った。
「あつくん、ここが何かわかった?」
「ああ」
少し間を置いて僕は言った。
「ユリ、ここに居たんでしょ?」
ユリコが笑った。
「さすがだね」
この時になってようやく初めは嫌がっていた花火大会にユリコが来た理由が分かった。
「帰ろっか?」
もういつものユリコに戻っていた。
僕のアパートに帰ると僕はシャワーを浴びに浴室に入った。ユリコは僕と違って浴槽にお湯を張りゆっくりと入るので、いつも僕が先に済ませる。
僕はシャワーを浴び終えるとバルブを捻って浴槽にお湯を張る。
「いいよ」
頭をタオルで拭いて乾かしながらユリコに交代した。僕はパンツ一枚でパソコンの前に座りタバコに火をつけた。コンポの電源を入れて音楽を流した。ジョン・コルトレーンの『Ballads』。サックスを激しくブロウすることで有名な彼がこのアルバムでは珍しくゆったりと優しく甘美的なメロディを奏でる。その音楽を聴きながら一服を終えると、ロフトの階段を登って間接照明の灯りを点けて布団に横になり、本を読みながらユリコを待つ。
浴室の扉が開く音がしてユリコが部屋に戻った。ドライヤーで髪を乾かして顔に化粧水とオイルを塗り終えると、ユリコがロフトの階段を登ってきた。僕がロフトの手すり側に体を動かしユリコが壁側に腰を降ろす。僕は本を閉じて枕元に置いた。
「今日はなんだか疲れたね」
体をユリコの方に向けながら僕は言った。
「あつくん、私ね」
「いや、いいんだ。言わなくても」
そう言うとユリコの頬をツーっと涙が流れた。僕は指でそっとユリコの涙を拭いた。
「生きるのはつらい」
何故だか今度は僕が泣いていた。すると、僕がしたのを真似るようにユリコは指で僕の涙をそっと拭いた。
「オレたち、前世で何かしたのかな」
ぐしゃぐしゃの顔で無理矢理笑いながら僕は言った。
「あつくんは良い人だよ。誰よりも優しくて、温かい心を持ってる」
「いや違う、オレは悪人なんだ」
「違わない。違わないよ、絶対に」
力強くも優しくユリコは言った。
「エッチなことしよ?」
「うん、いいよ」
ユリコは満面の笑みを浮かべて僕の手を握り、そのまま僕らは静かに夜の帳に溶けていった。
18
「一年前、オレは福島にいたんだ。東京での暮らしが嫌になってさ。どこか知らない土地で知らない人と暮らしたかった。でも、いつものように仕事が続かなくって、宮崎で農業をやってる叔父さんの所に行ったんだ。その直後だよ、地震があったのは」
「東日本大震災」
「そう。正直、実感は湧かなかったよ。なんせ南の、震源地からずっと離れた所にいたからね。テレビの緊急速報でそれを知った時は、自分の借りてる家とかそこにある荷物のことなんてどうでもよくなった。ただ何も言えなくって、何も考えられなくなった」
「そういう人、たくさんいたみたいだね」
「もう、怖いって気持ちすらなかった。叔父さんたちは『お前が宮崎に来てて良かった』って言ってたけど、当の自分は抜け殻で何が分からないのかも分からないって状態だった。ただそこにいる。それだけだった」
「で、あつくんが借りてたお家はどうなったの?」
「福島に行けたのは、地震の二ヶ月後だよ。運の良いことに借りてた家は山の上だったから津波の被害はなかったけど、瓦が落ちて内壁はボロボロだった。隣の家なんか崖っぷちに建ってたから地盤を持って行かれててっぺんから半分に割れてたよ。オレはほんとに運が良かった」
「何かが少し違ったら、私はあつくんに出会えなかったのかもね」
「そうだね。オレは生かされた。二万人の命と引き換えにね。だからたくさんの動画がYouTubeには上がってるらしいけど見れないんだ。未だに見れない」
そこまで語るとユリコは言った。
「それで、あつくんは何が言いたいの?」
「戦争だよ。自然災害は仕方ないとしか言えないけど戦争は違う。それは人が起こすもので、人間の欲望が引き起こす。家族や兄妹、友人や恋人。無慈悲に誰かが最愛の人を失う悲しみをオレは見たくないんだ」
「じゃあ、どうするの?」
「オレは何もできないよ。オレ一人では何もできない。でも、将来オレと同じ気持ちを持った人と出会えたなら、オレは行動したい」
ユリコは理解したようだった。
「あつくんは自分を犠牲にするの?」
「オレの命になんか価値はないからさ」
「そんなの間違ってるよ」
ユリコが必死になって訴えた。
「オレは医者になりたかったんだ」
「え?」
突然の言葉にユリコは困惑していた。
「8才の時に実家の前に病院が出来たんだよ。最初は何だろうって思ってたけど、親に付いて自分も行ってみてわかった。院長先生は立派な人で、子供のオレに自由に院内を見学させてくれた。そこで見たのは怪我をした人や病気になった人のために一生懸命に働く人たちの姿だった。それで思ったんだ『オレも人のために生きたい』って」
「じゃあ、何でお医者さんにならなかったの?」
「心の病気の存在を知ったからさ。病気だけじゃない、障害やもっと一般的な問題をね。それと同時に医者として、一人の人間としての限界を知った。オレが高校を辞めてミュージシャンを目指したのも、音楽が人の心を救う最高の手段だと思ったからなんだ」
「でも、音楽も辞めたんでしょ?」
「音楽は、芸術は慰めにしかならなかった」
「じゃあ、何ならいいの?」
「政治だよ。政治家になるってことじゃなく、一市民として、一国民として積極的に政治に参加すること。それがこの日本に蔓延する社会問題を抜本的に改革する唯一にして最大の方法だよ」
僕がそう言うとユリコは悲しそうな目をして言った。
「あつくんはどこに行っちゃうの?」
僕はその問いかけに答えられなかった。
「ごめん、急にこんな話をして」
答えられない代わりにそう言った。
それは僕にもその答えが分からなかったからだ。
いつしか日はまた昇り、新しい一日が始まっていた。
19
大型のキャリーバッグを開けてユリコが荷物をまとめていた。
「ドイツに行く」
そう聞かされたのは出発の前日で僕は急いでユリコのアパートに向かった。
玄関を開けるとユリコはクローゼットから冬物のコートを出してキャリーバックに詰めているところだった。
8月、夏真っ只中の日本と違い、この時期のドイツは気温の低下が激しく10℃近くまで冷え込むらしかった。
「ユリ、これ」
と言って一冊の本を渡した。
「なにこれ?」
「向こうで日本語が恋しくなったら、これを読んでよ」
それは石田ゆり子のエッセイ『天然日和』だった。
「私、雑誌で少し読んだかも」
そう言ってユリコは本を捲り始めた。
「読むのはドイツで」
僕はユリコの手から本を取り上げた。
「何か手伝おうか?」
計画性がなく段取りの悪いユリコを心配して提案した。
「いや、いい。自分でやるの」
ユリコは僕の協力を頑なに拒否した。しかし、結果は僕の想像よりも酷く、午後11時になってもユリコは部屋中をあたふたと歩き回るだけで荷物は一向にまとまる気配がなかった。
「始発の電車に乗るんだよね?寝れないじゃん」
「いいの。時差もあるから飛行機の中で寝るの」
頬を膨らませながらユリコは鬱陶しそうにiPodを手にして音楽を聞き始めた。
窓の外が明るくなり始めた午前4時にユリコは割り切ったのか、一気にキャリーバッグに荷物を詰め込むと僕に声をかけた。
「もう行くから」
「うん、オレも帰るよ」
ドイツ滞在一週間分の荷物の詰まったキャリーバックの重さは相当なもので、ユリコが両手で必死になってやっと持ち上がる程度だった。
「駅まではオレが持つよ」
僕はユリコからキャリーバックを受け取ると両手で持ち上げながらアパートの階段を降りた。
「もうすぐ電車来ちゃう」
僕らは走って駅に向かった。
なんとか始発の電車には間に合った。駅のホームに着くと僕はキャリーバックを持ち上げて電車に乗せた。
「ユリ」
その声で顔を上げたユリコに僕はキスをした。周りの乗客の視線は気にならなかった。
「じゃあ、オレは反対の電車だから。帰ったら連絡してよ」
そう言うと僕はユリコに背中を向けてその場を去ろうとした。
「あつくん」
その声で僕が振り返るとユリコが僕にキスをした。不意打ちだった。その直後、発車のアナウンスが流れ電車のドアが閉まった。僕は呆然とその場に立ちすくした。ユリコは僕の姿が見えなくなるまで小さく手を振っていた。
どうか無事に帰ってきて欲しい。心の底から人の身を案じたのは初めてだった。
20
一週間。今になってみると長い時間ではないと思うけど、あの頃の僕にはそれは今までに経験したことのない凍えるような孤独の痛みを味わうのに充分な時間だった。8月の一ヶ月間、ユリコとそんなに長く離れて生活するのは初めてだった。ユリコと一緒に寝た布団の上で間接照明の灯りだけを点けて独りで色んなことを考えた。
ユリコについてはもちろん、自分について、二人の将来について、愛について、運命について。真剣になって考えれば考えるほど、それらは答えの出ない難しい問題なんだと知った。一日が過ぎる度に、あと何日待てばユリコが帰ってくるのか計算していた。この時ほど、時の流れの遅さを憎んだことはなかった。そしてその時に確信した。僕はユリコを愛してる。愛なんて、僕がどれだけ手を伸ばしても触ることはおろか、見つけることさえできないものだと思っていた。もし、奇跡が起きて手にしたとしても風に吹かれて消えてしまうものだと。しかし、いざそれを手にした事実を突きつけられた時、僕は恐怖におののいた。金もなく、人として至らない僕が彼女を幸せにできるのか。またわがままを言って彼女を困らせたり、苦しめてしまうのではないか。
そういったいかにも人間的な自分の醜い側面が嫌で嫌で堪らなかった。
「お互い、傷の浅いうちがいい」
ようやくそう結論づけた頃、ユリコから携帯に帰国の知らせが届いた。
21
ユリコのアパートを訪れたのは午後7時。怠そうにユリコは僕を出迎えた。
「時差ボケ?」
「うん、飛行機でも寝れなかった」
そう言いながら、のそのそとユリコは荷物を整理していた。
「ドイツ、どうだった?」
「いっぱい写真撮ったよ」
小型カメラを手に取ってディスプレイをつけて僕に手渡す。どの写真もアングルが悪く手ブレもしていて、おまけにユリコの指が必ず写っていた。
「けっこう色んな場所に行ったんだね」
「思ってたよりハードだった」
僕がカメラを手に次から次へと写真を見ているとユリコが傍に来て一枚の写真を見せた。
「ここ、どこだかわかる?」
「さぁ?」
「ベルリンのユダヤ博物館。第二次世界大戦の時、ナチスの強制収容所で殺された人たちの遺留品もあってホロコーストの凄惨さを忘れないために作られたの。建物はわざと来場者の平衡感覚を失わせるような造りになってたり、所々で当時のユダヤ人が経験しただろう不安定な心理を表現するような建築になってるの」
そこまで語ると思い出したようにユリコは鞄から何かを取り出した。
「これ、“ベルリンの壁”だよ」
小さなジッパー付きのビニール袋にはバラバラになったコンクリートの破片がいくつか入っていた。
「取ってきて大丈夫なの?」
「実際に壁があった場所の瓦礫は全部撤去されたり、当時の人たちが記念に持って帰ってしまったからこれはその壁の続きの一部だよ」
「やるね」
僕はジッパーを開けて袋の中から破片の一つを取った。
「あっ!一番大きいの取った!」
そう言ってユリコは口を尖らせた。
「あと、これもお土産」
次にユリコが取り出したのは手の平サイズの木製のサンタクロースの人形だった。
「いいね、これ」
土台の裏側にある板を指で押すと人形に通された糸が緩んでサンタクロースが倒れる。
僕は大事にその二つのお土産を鞄にしまった。
「ちょっとコンビニ行かない?」
「どうしたの?」
「酒が欲しくなってさ」
ユリコは露骨に怪しみながら言った。
「あつくんがお家でお酒飲むなんて珍しいね」
僕は誤摩化すように笑って、
「たまにはさ」
と言い二人で家を出てコンビニに向かった。
強めの酎ハイを4本買ってユリコのアパートに帰った。
女の勘は鋭い。玄関の鍵を閉めて敷いてある布団に座るとユリコが言った。
「で、話があるんでしょ?」
下手に誤摩化したからユリコは少し怒っていた。僕は慌てて酎ハイを2本飲んでよし、と覚悟を決めた。
「ユリ、縁を切ろう」
酒を飲まなければ言い出せなかった。
「どういう意味?」
ユリコは全く意味がわからないという表情をした。
「そのままの意味だよ。オレたち付き合ってないんだし、こんな訳の分からない関係を続けるのはお互いに良くないと思うんだ」
「あつくん、酔ってるの?」
ユリコが眉間に皺を寄せて言った。
「酔ってないよ」
「酔ってるでしょ、あつくんが酔って言った言葉なんて私聞かないから」
それでもユリコはその言葉の意味をしっかりと理解して涙を流していた。
「ユリは美人だし、優しい子だから絶対にオレよりも良い人が現れるよ」
「嫌だよ」
「ユリがドイツに行ってる間、オレなりにしっかり考えたんだ」
「嫌だ」
「ユリが最初に会った時に言ったじゃん。『私よりも若くて良い子がいる』って。オレもやっぱり若い子の方が良くてさ」
そう言って笑うと思い切りビンタをされた。
「馬鹿にしないで」
ユリコの濡れた眼差しは真っすぐと確実に僕を捉えていた。
「出会えたのは良かった、でもこういう運命なんだよ」
静かに俯いて僕がそう言うとユリコが泣き崩れた。
「タバコ吸ってくるよ」
僕は浴室に行って壁にもたれてしゃがみ込みタバコに火をつけた。僕がタバコを吸っているとユリコがやってきて僕の頬にキスをした。
「あつくん、好きだよ」
繰り返しそう囁きながら、何度も何度もキスをした。
「ユリってさ、オレが優しくすると無愛想なくせに、オレが冷たくすると急に甘えてくるよね。ユリのそういうとこがめんどくさいんだよ」
遠くを見つめてそう言うとユリコはキスを止めて僕の身体から離れた。
「出てって」
ユリコはもう泣いていなかった。
「早く出てって!」
「わかった」
僕はタバコの火を消すと、浴室から出て荷物をまとめてユリコのアパートを出た。
ユリコが追ってこないのを確認すると、またタバコに火をつけて歩く速度を落とした。
これで良かった、これで良くなきゃいけないんだと僕は決めていた。それでも、一度涙が溢れ出すとそれはずっと止まらなかった。前が全く見えなくなり僕は観念してその場にしゃがみ込んで号泣した。
僕は愛してくれた人を不幸にする。自分勝手に振り回して、傷だらけにする。彼女だけはこれ以上傷つけたくなかった。僕の知る限り、世界で一番美しいその姿のまま、本当の幸せを見つけて欲しいと思った。
まるで僕たちはお互いの分身だった。それほどまでによく似ていた。理屈っぽいところ、わがままなところ、無駄に優しいところ。近づこうとすればするほど遠く、彼女の姿は小さくなっていった。
神様。どうか彼女を、ユリコを幸せにしてあげてください。僕のような最低な人間ではなくて自分に正直で、なによりも彼女を大切にしてくれる人間を。
しっかりとそう願って僕は自分で自分の涙を拭いて立ち上がり、また歩き出した。
22
自分のアパートに帰って真っ暗な中ロフトの階段を登り間接照明の灯りを点けて布団に横になった時、もう一人の僕が囁いた。
「これで満足か?」
僕はしばらく黙った後、
「ああ」
と短く答えた。
「自分勝手だな」
もう一人の僕はそう続けた。
「よく言われるよ」
「お前は何がしたいんだ?」
「オレにもよくわからない」
「そのままだと一生独りだぞ?」
「孤独には慣れてるよ」
その言葉にもう一人の僕からの返事はなかった。
僕は夜が好きだ。人の声も車の音も何もなくて世界で僕一人が取り残されたような錯覚を覚える。
その錯覚だけはきっと、それだけは僕を裏切らない。
そんな気がしていた。
23
「ってわけでさ、また退屈になっちゃったよ」
新宿のいつものスナックであらかじめママに女の子を呼ばないように頼んでから、いつものボックス席に座って僕はそう言った。
「カミは“サウザー”だよ」
「え?」
「知らないの?だからダメなんだよ。男なら『北斗の拳』を読めよ」
またいつものが始まったと思った。
「ごめん」
「『愛などいらぬ』そう言って自分の覇道を行ったサウザーは、主人公のケンシロウに出会い、闘って敗れる。散り際にサウザーはケンシロウに問いかける。『愛や情は哀しみしか生まぬ。なのに何故、哀しみや苦しみを背負おうとする』その言葉にケンシロウは『哀しみや苦しみだけではない。お前も“ぬくもり”を覚えているはずだ』と答える。サウザーは師であり、孤児である自分を息子のように愛してくれた人を思い出して、涙を流しながら死んでいく。最後に、ケンシロウはこう言ってサウザーを見送る。『哀しい男よ、誰よりも愛深きゆえに』」
黒木さんはそこまで語るとグラスを傾け、いつもの焼酎のサイダー割りを飲んだ。
店の女性客がオウヤン・フィフィの『ラヴ・イズ・オーヴァー』を歌っていた。
「運命ってあるのかな」
僕が問いかけると、黒木さんはタバコに火をつけながら言った。
「そんなものないよ、全部偶然」
「そっか」
僕もグラスを傾けた。
24
「あっくん、起きて」
身体を揺すられて目を覚ますとサキがいた。どうやら、店で酒を飲んでいるうちに寝てしまったようだった。
寝起きの一本に火をつけてテーブルの向かいの席で寝ている黒木さんに声をかける。
「黒木さん、朝だよ」
そう言うと黒木さんはすぐに目を覚ました。
「昨日はすぐにカミが寝ちゃったから暇でしょうがなかったよ」
と文句を言いながら黒木さんもタバコに火をつけた。カウンターの方では着物姿の女の子たちが、閉店作業のためにバタバタとしていた。
午前5時。この店の閉店時間だ。大抵の客はその前に帰って行くが、20年来の常連客とその連れの特権というものか、ただ僕らが厚かましいだけなのかは分からないが、店の女の子が閉店作業を終えて退店するまで店の隅のボックス席でだらだらとタバコを吸っていた。
「それよりさ」
ボーッとしながら黒木さんに話しかけた。
「仕事辞めたんでしょ?今何してるの」
「パチンコで食ってるよ」
「そんなことしてないでちゃんと働きなよ」
「無職のヤツが言っても響かないよ」
それもそうだね、と僕は笑った。
「あのさ、拳銃買えないかな」
「そんなもん、そこら辺で買えるよ」
黒木さんが面倒くさそうに言うと、もう閉めるよ!と私服に着替えたサキが入り口から僕たちに声をかけた。
25
季節は秋を飛び越えて冬になっていた。というのも、残念なことに秋と呼ばれる時期の記憶が僕にはない。
キャノンボール・アダレイの『Somethin' Else』は確実に聴いていただろうけど。
ただ飽きもせずに今日が過去になって、未来だった日が今日になる。そんな毎日をただ自堕落に食い潰していた。そして、腹一杯になって誰にも気付かれずに腐って死ぬんだろうと思っていた。
僕の脳みそが再び記録を始めたのは一本のアヤからの電話がきっかけだった。
「カミちゃん、生きてる?しばらく会ってないから心配してたよ」
「ああ」
「この三ヶ月何してたの?」
「死んでたのかも知れない」
そう言って僕が笑うとアヤはあのゲラゲラという笑い声をあげた。
「アヤちゃんは変わらないな」
「彼氏はできたけどね」
アヤが嬉しそうに言った。
「うそ!?イケメン?」
「顔は普通。でも優しいよ」
「よっぽど心の広い人なんだな」
思わず僕は感心してしまった。
「で、何の用なの?」
「今度、高円寺で個展やるから来ないかなって思ってさ」
「ああ、行くよ」
「で、頼みがあるんだけどさ。絵を運ぶのを手伝って欲しいんだよね」
「そんなにたくさんあるの?」
「いや、枚数はないんだけど、一枚大きいのがあってさ」
「取り敢えず大きさを知りたいから、今からアヤちゃんの家に行くよ」
僕は着替えてアヤのアパートに向かった。
アヤのアパートに着きインターホンを鳴らすとアヤがパジャマ姿で出てきた。
「おっ、早いね。この絵なんだよ」
玄関には一枚の大きな絵が立てかけてあった。
「すごいね。オレと会ってない間にこんなの描いてたんだ」
「まぁね」
靴を脱いでアヤの家にあがった。
相変わらずアヤの部屋は混沌としていて今にもゴキブリが這い出しそうな有様だった。
「この絵はいつものタッチと違うね」
じっくりと絵を眺めながら言った。
「こういうのも描くんだよ」
「この大きさなら持ちながら歩けるよ」
「だから背の高いカミちゃんに頼みたいんだよ」
「他の絵はどうするの?」
「自転車の荷台に乗せて行くよ」
あっ、とアヤは声を上げてから部屋の奥に行ってノートパソコンを開いた。
「それとゲーム作っててさ、その音楽作って欲しいんだ」
「どうせホラーでしょ」
僕が呆れた顔をして言うとアヤがゲームデータを開いた。画面に病院の背景が映し出されて手描きの包帯を巻いた女の子が現れ、その上を文字が走り出した。
「『かまいたちの夜』みたいな感じか」
「そうそう。マニアには受けると思うんだよね」
一瞬で「売れない」と思ったが暇潰しに音楽はやることにした。
アヤがパソコンをデスクトップ画面に戻すと、そこにはおぞましい数の金髪女性の画像があった。
「うわっ、なにこれ?」
「なんか対照的な二人だな」
「好きなんだよ」
そう言ってアヤはノートパソコンを閉じた。
26
ギャラリーに絵を搬入する日、僕はアヤのアパートで小さな絵を自転車の荷台にロープで固定していた。
「これくらい自分でやれよ」
ぶつくさと文句を言った。
「何回やっても緩んじゃうんだよね」
「黒木さんがいたら延々と文句言われるよ」
「出た、黒木さん。会ってみたいなぁ、今何してるの?」
「パチプロ」
ゲラゲラとアヤが笑った。
「よし、できた」
「わーい、ありがとう」
「アヤちゃんの彼氏は苦労するだろうね」
僕は大きな絵を一枚持ち、アヤは小さな絵を積んだ自転車を押しながら住宅街の細道を抜けて高円寺に向かった。
ギャラリーは高円寺駅のアヤが働いているスナックのすぐ近くだった。
「あたし、お店に自転車置いてくるから」
ギャラリーの透明なドアを開けて絵を運び込むとアヤは僕を置いて行ってしまった。
壁一面がガラス張りで、中は四畳半くらいのスペースに螺旋階段が2階に続く随分と小洒落た造りの建物だった。
「前はカフェだったんだって」
自転車を置いて帰ってきたアヤが言った。
「そこにドアがあるでしょ?その向こう側にも喫茶店があって、頼めばコーヒー持ってきてくれるらしいよ」
1階のスペースに置いた絵を眺めた。
「このグロテスクな絵は2階にしときなよ」
「やっぱり、そう思う?」
「うん、っていうか何なのこれ?」
「犬」
螺旋階段を登って2階に行くと大きなスピーカーが天井に二つ設置されてた。
「これ使いたいんだけど、使い方がわからないんだよ」
「この配線繋げて電源入れるだけでしょ」
僕がコンポの抜かれた配線を繋いで本体をいじると音楽が流れた。
「ビル・エヴァンスか。なかなか良いね」
入っていたのはビル・エヴァンスの『I Will Say Goodbye』だった。
「この音楽かけながら一階に客を入れて二階でバレないように可愛い女の子とセックスしたいね」
「頭おかしいんじゃないの」
アヤが怪訝な顔をした。
「童貞だからさ」
「いい加減、風俗でも行けば?」
「風俗には愛がない」
ある僕の好きな日本のミュージシャンが言うには「愛はコンビニでも買える」らしいけど、あいにくそんなものを買う金はない。
「でも、やっぱり金なのかな」
「何の話?」
「いや、別に」
僕はアヤに聞かれないように、頼りなさげにもう一人の僕に聞いた。
「金があれば愛は買えるの?」
もう一人の僕はさよならも言わずにいなくなっていた。
27
アヤの個展の初日。客足はなく、1階の隅に椅子を置いてアヤはボーッとしていた。
手相占い500円。小さなテーブルの上にはそう書かれた紙がペーパースタンドに挟んであった。
「アヤちゃん、手相見れるの?」
「まぁ、一応ね」
「オレの手相見てよ」
僕が両手を差し出すとアヤが鑑定を始めた。
「すごい皺の数だね。うわ、神秘十字線がこんなにハッキリ出てるの初めて見た」
「アヤちゃんが好きそうな名前だね」
「カミちゃん、運が強いでしょ」
「そうなのかな。それよりさ、この“て”みたいなのが生命線でしょ?オレはいつ死ぬの」
「知能線も長く伸びてるね。生命線の長さがこれくらいなら60才くらいじゃないかな」
“錆びるよりも燃え尽きたい”
ショットガンで頭を撃ち抜いて死んだカート・コバーンが遺書に残したニール・ヤングのあの言葉が真っ先に頭に浮かんだ。
チリン、とベルが鳴ってドアが開いた。
「あ、こんにちわ」
カジュアルな服装の男がやってきた。
「石木さん、来たよ。今日オープンでしょ?」
男がにこやかに言った。
「ありがとうございます。ゆっくり見てってください」
アヤが立ち上がって案内を始める。
「誰なの、この人」
僕がアヤに耳打ちすると、
「プロのイラストレーターの人だよ」
とアヤが言った。
「へぇ、メルヘンチックな絵を描くんだね」
男はテーブルに置かれた一枚の小さな絵を見ながら言った。
「あれ、この人は彼氏?」
男が僕に気付いて言った。
「いや、友達です。彼氏は今日来てないんです」
どうも、と僕は短く挨拶をした。
「君も何かやってるの?」
男は健康的な笑顔を僕に向けた。
「音楽を少し」
「へぇ、どんな音楽やってるの?」
僕はこういう積極的で健康そうな男っていうのが嫌いだった。
「バンドはやってないんで、パソコンで打ち込みの音楽を作ってます」
「そっか、頑張ってね」
男はそう言うとアヤの方に向き直り談笑を始めた。
「ちょっとタバコ吸ってくるわ」
僕はギャラリーを出て近くの自販機でコーヒーを買って座り込みタバコに火をつけた。
思いの外ギャラリーのある場所は人通りが多く、ギャラリーの前に立ち止まって外から見えるように飾られたアヤの絵を眺める人がいた。
ギャラリーに戻るとアヤとあの男は2階に行っていて吹き抜けから下まで笑い声が聞こえていた。
僕はテーブルに置いてある絵を見た。『祈り』そう名付けられた絵は一人の天使が胸の前で手を重ねていた。
「意外すぎるよ。ちょっと驚いたわ」
男がそう言いながら螺旋階段を降りてきた。
「楽しかった。じゃあまたね」
アヤが入り口まで行って男を見送るとチリン、とベルが鳴ってドアが閉まった。
「アヤちゃん」
入り口からアヤが振り返る。
「オレ、革命家になろうかな」
「チェ・ゲバラみたいな?」
「オレはカストロの方が好きなんだ」
「っぽいよね」
この日からまた毎日のようにアヤとギャラリーに入り浸って無為に日々を過ごした。
28
ギャラリーの前を通る人はたくさんいたが、その中まで足が伸びることはなかった。僕は2階のコンポに家から持ってきたCDを入れて音楽を流した。オーネット・コールマンの『The Shape Of Jazz To Come』。これはいわゆるフリー・ジャズの名盤。このアルバムのイカれた蒸気機関車のような不安定に暴走するメロディが今の僕の心情にピッタリだった。
アヤがノートパソコンを持って2階に来た。
「カミちゃんが作ってくれた音楽良かったよ」
コンポの置いてある棚にノートパソコンを置いてアヤが言った。
「でも、ゲームの方がなんかイマイチなんだよね」
「ストーリーがあるんでしょ?」
「自殺未遂した女の子と、その子に恋した男が結ばれないまま自殺する話。選択肢によってランダムに話が進むんだけど、なんかしっくりこないんだよね」
「見せてよ」
ノートパソコンを借りてゲームをやってみる。5分も保たずにバッドエンドになった。
「なにこれ、ハッピーエンドはあるの?」
「一応、あるよ」
「なんか文章のクセが強過ぎて読みにくいよ。小説じゃないんだから、オレだったらもっと平易な文章にして万人受けするようなものにするよ」
「マニアにだけ受ければいいんだよ」
アヤがふてくされて言った。
「これじゃあ、マニアにも受けないよ」
「厳しいなぁ」
こうやってダラダラと時間を潰して、夕方になるとギャラリーを閉めてから駅前のマクドナルドでハンバーガーを買って商店街の細道を通って帰る。
「そういえば最近ユリコさんと連絡がつかないんだけど知らない?」
「学校が忙しいんじゃない」
「それならいいけど、何かあったら心配だな」
アヤはユリコと僕の関係を知らない。
「なんか魚みたいな顔してたね。もっと可愛い子紹介しろよ」
「ユリコさん、充分可愛いでしょ」
「あんまりタイプじゃないな」
「そんなんだから彼女できないんだよ」
「余計なお世話だよ」
僕はふてくされて言った。
「明日は何してるの?」
「明日は用事があるんだよね」
「珍しいね、何があるの?」
「ハローワークに行くんだよ」
「えっ、就職するの!?」
僕は驚きを隠せなかった。
「絵で食べていけるわけじゃないしね」
「大丈夫かよ」
29
就職活動のための証明写真を撮りにアヤと僕は中野ブロードウェイに行った。
アヤが写真屋で撮影をしてもらっている間、僕はゲームセンターでクレーンゲームをやっていた。
「終わったよ」
「はい、これ」
僕はクレーンゲームで手に入れたデイジーダックのぬいぐるみを渡した。
「わーい、ありがとう」
わかりやすくアヤは喜んだ。
「まぁ、就活頑張れよ」
「うん、ありがとう」
後日、面接には落ちたとアヤから連絡があった。聞くところによると面接には茶髪のウィッグを着けて金色の靴を履いて行ったらしい。
「どういう考えになったら、そんな格好で行くんだよ」
僕の家でいつもの場所に座ってテレビゲームをしているアヤに聞いた。
「うーん、気分」
「ちなみに何の仕事だったの?」
「学校の美術教師」
「そりゃ、アヤちゃんみたいな教師がいたら面白いけどさ」
僕は呆れ返った。
「まぁ、落ち込むなよ」
「落ち込んでないよ」
アヤが素知らぬ顔をして言った。
「でも、反省はした方がいいよ」
「わかってるよ」
ゲームオーバーの音楽が鳴り、アヤはコントローラーを置いた。
「あのさ」
アヤが言い出しにくそうにして俯いた。
「何?」
「あたし、結婚するかも」
「え、例の彼氏と?」
「うん」
俯いたままアヤは頷いた。
「急だね」
「来月から同棲するんだ。だから今のアパートは引き払うよ」
「そっか、寂しくなるな」
こうしてまた友達がいなくなる。
「引越しまではまだ時間があるから、たくさん遊ぼうよ」
顔を上げてアヤは空元気に言った。
「そんな暇ないだろ、あの汚い部屋を片付けないと。オレも手伝うからさ」
時間は確実に僕の手の中から大切なものを持って過ぎ去っていった。
30
東京に来た時に使った物や、実家からの仕送りに使われたダンボールを持ってアヤの家に向かった。
アヤは書類の分別をしていた。
「そんなもの捨てろよ」
「えー、何かに使うかも知れないし」
その書類だけで軽くダンボール二つ分はある。
「昔の展覧会のチラシなんていらないでしょ」
そう言って僕は“燃えるゴミ”と書かれたビニール袋に入れる。
「アヤちゃんは服をまとめなよ」
何段にも積まれたカラーボックスからは嘔吐したかの様に大量の洋服が溢れ出ていた。
「こっちのダンボールにはネックレスとか指輪の小物を入れて」
僕は小さなダンボールを組み立てた。
「ほんとカミちゃんは早いね」
アヤが感心しながらボーッと立っている。
「アヤちゃんって、一日が過ぎるの早いでしょ」
「そうそう。何でわかるの?」
時間というのは絶対的なものだ。しかし、時間と人間の関係となるとそれは相対的なものになる。
本を読んだり映画を観て一日過ごすのと、ボーッと何もしないで一日過ごすのは同じ一日でも全く違う。
アヤが一つ目のダンボールに荷物をまとめたところで僕は六つのダンボールをまとめていた。
「もう、後は彼氏に手伝ってもらいなよ」
「家が遠いからなぁ」
「同棲するんでしょ?引越しは大事なイベントじゃん」
「彼氏、働いてるし」
それを言われてしまえばお終いだ。
「わかったよ。手伝うから早くやろ」
結局、僕がほとんど片付けてアヤはカビの生えた布団にもたれながらラジカセで音楽を聴いていた。
「たまには中野に遊びに来てよ」
僕はもう吹っ切れてそんなことを言っていた。
「うん、山野さんのお店にはまだ行くから時間がある時は連絡するよ」
新しく出てきたプリントやチラシを整理していると『LOVE展』と書かれたピンク色の紙を見つけた。
「アヤちゃん、これまだやってるみたいだよ?行ってみない?」
「なにそれ?」
チラシをアヤに手渡す。
「六本木ヒルズだってさ」
「森美術館か、いいね。引越しが落ち着いたら行こっか?」
「また連絡してよ。じゃあ、オレは帰るから」
僕は玄関でアヤの靴に埋もれた自分の靴を履いてアパートを出た。
「アヤちゃん!」
僕は引き返してアヤを外に呼んだ。
「どうしたの?」
「見てよ!」
外は一面の雪景色だった。
「雪合戦やろう!」
僕の目はこの上なく輝いていたと思う。
「やだよ、濡れるから」
ボフッ、とアヤの服で雪玉が崩れた。
「先制攻撃」
僕はニヤリ、と笑った。
「やったな、それじゃあ」
アヤが特大の雪玉を作って僕に投げつけた。
「ちょっと歩いてみようよ」
そう言って僕はアヤを連れ出した。
「この辺、まだ誰も踏んでないよ」
僕は浮かれて、ズカズカと白銀の未開地を開拓していく。
「敵襲だ!伏せろ!」
アヤの肩を掴んで駐車場にうずだかく積もった雪に飛び込んだ。
「もう!危ないって」
すかさず僕は立ち上がって電柱にドロップキックをした。ドサッ、と何本もの電線に積もった雪が一斉に落ちてきて白い地面に同化した。
「アヤちゃん、見た?」
ドロップキックの姿勢で仰向けになったまま僕が言うと少し遅れて雪の塊が僕の顔に落ちてきた。
「パンクだね」
雪まみれになったアヤがゲラゲラと笑った。
31
2013年3月。アヤは中野を出て行って、彼氏との同棲生活を始めた。
僕はというと財布に金がなくなり、日雇いの建設現場での仕事を始めて生活をしていた。
体力的には厳しいけれど職場の人たちはみんな優しく情の深い人たちばかりで、その中でも織田さんという人には大変お世話になった。基本的に会社から作業現場を指定されて、直行直帰、作業員は順不同の毎回違う面子で構成されていた。それでも織田さんとは何度も同じ現場になり次第に仲良くなって、僕のことを“カミくん”と呼んで可愛がってくれた。
「織田さんの趣味はなんですか?」
作業現場近くの月極駐車場で昼食にコンビニ弁当を食べながら話をした。
「筋トレかなぁ」
箸を進めながら織田さんは言った。
「ジムに行ったりするんですか?」
「中野体育館のトレーニング場に行ってるよ」
「え、中野に住んでるんですか?」
僕は驚いた。
「そうだよ、カミくんも?」
「はい。僕は野方です」
「それでオレたちよく会うんだな。この会社、家から近い現場に派遣するからさ」
「そうだったんですか」
僕は偶然だと思っていた織田さんとの仕事に納得した。
「それで、カミくんの趣味は何なの?」
「僕は映画鑑賞ですね」
コンビニ弁当の卵焼きを摘みながら言った。
「例えばどんな映画?」
「スタンリー・キューブリックとジョン・カーペンターが特に好きで、最近の監督ならスティーブン・ソダーバーグとコーエン兄弟、『ダークナイト』シリーズのクリストファー・ノーランにデヴィッド・フィンチャーですね」
「キューブリックとかけっこう渋いね。オレはフィンチャー苦手なんだよな、ちょっとグロテスクじゃん」
コンビニ弁当を食べ終えた織田さんはショート・ホープに火をつけてそう言った。
「カミくん、デヴィッド・リンチ好きそうだよね」
「デヴィッド・リンチは『エレファント・マン』しか観たことないんです。織田さん、詳しいじゃないですか」
「趣味ってほどじゃないけど、去年は200本くらい観たよ」
「それ、趣味って言わないですか?」
「そうなのかなぁ」
僕もポケットからタバコを出して火をつけた。
「織田さんが観た最高の映画ってなんですか?」
なんだろなぁ、と言いながら織田さんはしばらく考えた。
「やっぱり『告発』かなぁ。主演したケヴィン・ベーコンのどうしようもないクズっぷりがオレとよく似てるんだよ」
煙を吐き出しながら織田さんが言った。
「僕は観たことがないです。監督は誰ですか?」
「監督は知らないなぁ。でも、ゲイリー・オールドマンが刑務所の副所長役で出てるよ」
「あ、ゲイリー・オールドマン大好きなんです。今度、借りて観てみます」
久々に僕の携帯が鳴った。すみません、と織田さんに断りを入れて電話に出た。
「もしもし?」
「あっ、カミちゃん?久しぶり」
「アヤちゃんか、どうしたの?」
「前に言ってた『LOVE展』さ、今度の日曜日に一緒に行けないかと思ってさ」
「日曜日ね、いいよ」
「じゃあ、六本木ヒルズで待ち合わせしよ?」
「わかった」
僕が電話を切ると織田さんが話しかけてきた。
「女の子じゃん。彼女?」
「いや、ただの友達です。この子、デヴィッド・リンチが大好きな変わった子なんですよ」
「カミくんの友達なら変わってそうだよ」
そう言って織田さんは笑った。
32
六本木ヒルズは東京メトロ日比谷線の六本木駅からだと地下コンコースで直結していて、建物の53階にある目的の森美術館にはすぐに行けるのだが、待ち合わせ時間の午後2時になってもアヤは現れなかった。
僕は66プラザの巨大な蜘蛛のオブジェの下にあるベンチに座ってiPodで音楽を聴きながらアヤを待った。
一時間近く待ったところで携帯にアヤからのメールが入った。
“六本木のすぐ近くまで行ったんだけど携帯を忘れてるのに気付いて取りに帰ってた。今からまた六本木に向かいます”
時間やルールを守れないのは幼稚だ。ただ、それをアヤに言ったところで直るものではないし、仕事の付き合いではないから注意したり諭すような真似はしない。どうせ、これはインスタントな関係だから。
午後4時。結局、二時間遅れでアヤは現れた。
「ほんとにごめん!ご飯奢るから」
そう言って平謝りをするアヤに、
「いや、いいよ。それよりこの蜘蛛のオブジェ見てよ。アヤちゃん、蜘蛛好きじゃん」
と落ち着きながら僕は言った。
「うん。あ、すごいねこれ」
頭上を見上げてアヤが言った。
「『八本脚の蝶』だっけ、なんかそんな本読んでたよね」
そのオブジェを見て、前にアヤの家に行った時に読んでいた本を思い出した。
「あぁ、あれね」
「自殺した女の子の日記だっけ?」
「そうそう」
僕は笑った。
「やっぱり、アヤちゃんは面白いな。じゃあ、行こうか」
六本木ヒルズ森タワーに入りエレベーターに乗って森美術館に向かった。
受付でチケットを買って入場する。
「さすが六本木ヒルズだな」
手に持ったチケットを見ながら言った。
「ね。チケットがこんなにするとは」
受付でチケットと一緒に渡された案内を読んだ。
「シャガールから草間弥生に初音ミクだってさ。アヤちゃん、草間弥生好きだったよね?」
「うん」
「あの人、統合失調症だったんだっけ。水玉模様のイメージしかないけど」
草間弥生の水玉模様に飾られた作品を頭に浮かべた。
「水玉模様は“耳なし芳一”が幽霊から身を守るために全身にお経を書いたのと同じ儀式なんだってさ」
「『耳なし芳一』は小泉八雲の本で読んだよ。芳一は耳にだけ経文を書き忘れて耳を切り取られるけどね」
しばらく廊下を歩いて行くとまたカウンターがあった。
「ここで作品の音声ガイドが借りられるみたい」
二人分の音声ガイドを借りると会場に入った。
パッと見た感じ、現代アート色の強い展覧会だなと思った。
「あっ、新宿の“LOVE”の彫刻がある!これ、いつも行くスナックのすぐ近くなんだよ」
それは新宿のものと少し違って歪な形だった。アヤはすでにイヤホンを装着して他の作品をじっくりと鑑賞していた。とりあえず、僕もイヤホンを着けて音声ガイドを聴き始めた。
会場はとても広く作品数も膨大だった。僕は音声ガイドのゆっくりとした説明に飽きて次から次へとフロアを移動していた。その中で特に僕の興味を引いたのは、人形浄瑠璃の『曾根崎心中』についての浮世絵と実演された映像だった。そもそも“心中”というドラマチックな行為には興味があった。しかし、僕は心中よりかはゲーテの『若きウェルテルの悩み』の主人公のように激しい恋の末に独りで自殺するタイプだ。
『曾根崎心中』も『若きウェルテルの悩み』も、登場人物が自殺する本が出ると、その影響で自殺者が増えるらしい。いつの時代、どの国にも生と死の境界線を危なっかしく歩いている人間は変わらないようだ。
初音ミクの作品があるブースに行くとアヤがいた。
「そうそう。スイッチを押しながらそこのマイクに何か話すと、その言葉を使って歌ってくれるんだってさ」
マイクの前には行列ができていて二人で並んだ。
僕の番が来るとスイッチを押してマイクに話しかけた。
「愛」
コンピューターが自動的に認識をして前方のスクリーンに即興でその言葉を使った歌詞が映し出され、歌声が流れた。
「へぇ、すごいね。じゃあ、アヤちゃんの番」
アヤがマイクの前に立ってスイッチを押す。
「そばにいて」
「彼氏がいるじゃん」
「あっ、余計なこと言わないでよ」
スクリーンに「そばにいて」「彼氏がいるじゃん」という歌詞が映り、歌声が流れた。後ろに並んでいる人たちがクスクスと笑った。
愛をテーマにした数々の作品を眺めながら歩いていると人集りが目に入った。近づいてみると、そこには大きなモニターがあってジョン・レノンとオノ・ヨーコが行った平和活動パフォーマンス“ベッド・イン”の映像が流されていた。ジョンとヨーコが真っ白なベッドに横になっていて、そこを訪れた友人や知人やファンの人たちと平和について語り合う様子に字幕がついていたから、このパフォーマンスをこの時に初めて見る人が多かったようだ。
モニターの前のベンチに座って、しばらくその映像を観ているとアヤがやって来た。
「オノ・ヨーコって何者なのかって思ってたけど、現代アーティストなんだね」
「そうだよ。『踏まれるための絵画』とかが有名かな」
僕はタバコが吸いたくなってベンチを立ち会場の外へ出た。今日の様子だときっとアヤは当分会場にいるだろうから、僕は近くの松屋に行って夕食を食べた。
午後8時。66プラザのベンチで寝ながらアヤを待っているとアヤが買い物袋を下げて現れた。
「何買ったの?」
「パンフレットと草間弥生のキーホルダー」
嬉しそうにアヤが袋から取り出して僕に見せた。
「良い買い物したね」
「夕飯食べた?」
アヤがお腹をさすりながら言った。
「松屋で牛丼食べたよ」
僕がそう言うとアヤは残念そうな顔をして、
「そっか、じゃああたしは家で彼氏と食べよっかな」
と言った。
「オレも行っていい?」
と聞くと、
「いいよ、今度呼ぼうと思ってたし」
とアヤは快諾してくれた。
33
六本木からアヤの新居まではけっこうな距離で、最寄り駅からは15分ほど歩いた。
アパートに着いてアヤが玄関の鍵を開けた。
「ただいま」
靴を脱ぎながらアヤが言うと、
「お帰り」
と部屋の中から優しそうな男性の声が返ってきた。
「カミちゃん連れて来たよ」
玄関に出迎えに来た男にアヤが言った。
「おお、待ってました。初めまして、西川と言います。立ち話もあれだから上がってください」
優しい表情で西川さんは言った。
「いや、すぐに帰るんで」
「そうなの?」
アヤが残念そうにした。
「それよりアヤちゃん、鍵開けっ放しだったよ」
と西川さんが言った。
「あ、ごめん」
「僕が早く気付いて良かったよ。それで展覧会はどうだった?」
「面白かったよ、これお土産」
アヤが手に持った買い物袋を西川さんに渡した。
「これ、全部アヤちゃんのでしょ」
「あ、バレた?」
ところで、と僕が口を挟んだ。
「アヤちゃんは壊滅的に生活力がないから大変じゃないですか?」
西川さんが苦笑した。
「そうなんですよ。すぐに物は無くすわ、壊すわで大変です。でも、可愛いから許してますけど」
「西川さん、優しいでしょ?」
アヤがのろけた。
「オレだったら絞め殺すよ」
僕はわざと語気を強めて言った。
「食事はどうしてるんですか?」
「西川さんが作ってくれるよ」
「え!?仕事から帰って来てから?」
僕が驚いて西川さんを見ると、
「そうなんです。もう慣れましたけど」
と西川さんは照れ笑いをした。
「すごいですね」
僕は心の底から西川さんに同情した。
「じゃあ、僕は帰るんで」
「ええ、また機会があれば遊びに来てください」
軽くお辞儀をして、僕はアヤと西川さんに見送られながら二人のアパートを後にした。
帰り際に、さっき確認した部屋番号の郵便受けにアヤへの手紙を入れておいた。
その手紙には一言だけ、こう書いていた。
“さよならだけが人生だ”
34
「オレ、しばらく東京からいなくなるよ」
「急にどうしたの?」
いつものスナックでグラスを傾けながら黒木さんに言った。
「やりたいことが見つかったんだ」
僕はタバコに火をつけて言った。
「やりたいことって何なの」
「秘密だよ」
「なら言うなよ」
黒木さんが露骨に腹を立てた。
「一応、お別れの挨拶にさ。準備ができたらまた東京に帰ってくるから」
「そっか」
そう言うと黒木さんは焼酎のソーダ割りの入ったグラスを傾けた。
「まぁ、取り敢えずオレが帰ってくるまでは生きててよ」
「オレは理由があって自殺できないから」
「何それ?」
「ちょっと良い子ができたんだよ」
黒木さんがニヤニヤと笑った。
「やったね、これで老後も安心じゃん」
「まだ口説いてる段階だけどさ」
こんばんわ、と言ってサキが黒木さんの隣に座った。
「サキちゃん、黒木さん彼女作るらしいよ」
「え、そうなんですか?」
と驚きながら黒木さんの結露したグラスを拭いた。
「まだメールのやりとりしてるだけだって」
黒木さんが面倒くさそうに言った。
「オレはサキちゃんにしか興味がないから」
僕はサキの目をじっと見つめた。
「えー、困るよ」
「もっと困ってよ」
そう言うとサキは満面の営業スマイルをして、
「じゃあ、一杯ちょうだい」
と言った。
「いいよ」
「やった!」
サキがカウンターに酒を取りに行った。
「カミはすぐ女の子に飲ませるから金がなくなるんだよ」
「それで良いんだよ」
金なんてどうでもいい。人に喜んでもらえるのならそんなものいくらでも使ってやる。
35
季節の変わり目というのは期待と不安が入り混じりどこか落ち着かない。
2013年4月。中野駅は大きな変貌を遂げていた。
駅の北口は今月に開かれたばかりの複数の大学のキャンパスと緑豊かな公園で構成された“中野セントラルパーク”にスムーズに移動できるように大幅に改修された。買い物にコンビニへ行くと大学生らしき若者たちの姿を頻繁に見かけるようになった。
街は変わった。僕が暮らした、たった一年で。
この一年でたくさんのかけがえのない思い出ができた。
インターホンが鳴って玄関のドアが開いた。
「回収のお荷物はどちらですか?」
「家電製品、全部です」
リチャード・バックの『かもめのジョナサン』一冊だけを残して、大量にあった本やDVDのコレクションも全て売り払った。
もぬけの殻になった部屋には清々しい春風が舞い込んで、新しい人生の幕開けを祝福していた。